「でも、契約を交わしているんですが……」マネージャーが凌川風太の後を追いながら、眉をひそめた。
「体調が悪いと言って、医者に診断書を書いてもらえばいい……そんなこともできないのか?」凌川風太は悪戯っぽい笑みを浮かべた。これまで順風満帆だった彼に、誰もこんな風に平然とすっぽかすことなどなかった。天野奈々のような三流モデルが、よくもこんな大胆なことを。
「分かりました」マネージャーはコートを整えながら、凌川風太の後をぴったりと付いて行った。
凌川風太がこんな勝手な真似ができるのは、彼の父親が映像会社の大スポンサーだからだ。たとえ本当に契約違反で広告撮影に来なくても、違約金を払うだけのことで、彼にとってはなんともない。
しかし、天野奈々にとっては違う。彼女は一つ一つのチャンスを大切にしている。なぜなら、それらが簡単には得られないものだと知っているからだ。
夜、東京の街灯が輝く中、安藤皓司は車を運転してハイアットレジデンスに到着した。これが初めて堂々と天野奈々の住まいに入ることだった。
天野奈々と墨野宙の愛の巣がどれほど豪華かは想像していたが、実際にそのスペイン宮廷風の内装を目にすると、やはり驚かされた。
しばらくして、天野奈々は部屋着姿で階段を降りてきた。緊張した様子の安藤皓司を見て言った。「来てくれたのね……凌川風太に困らされなかった?」
「困らされたとまでは言えませんが、この凌川風太という男は常識外れで、簡単には私たちを許してくれそうにありません」安藤皓司は説明した。「今、神野真美もあなたを抑え込もうとしている傾向にあります。これからはもっと気をつけないといけません」
「あなた……もう私の味方になりかけているみたいね?」天野奈々はソファに斜めに座り、語気に微かな笑みを含ませた。
安藤皓司は一瞬固まった。自分の言葉の中に、すでにいくつかの答えが漏れていたことに気づかなかった。モスクワで墨野宙が求めていた答えだ。
「今のところ、私は自分の心の側に立っています」安藤皓司は真剣に答えた。突然神野真美を裏切るようなことは、絶対にできないからだ。
「構わないわ。無理強いはしないから」天野奈々は髪をかきあげながら言った。