第169章 お別れの食事

「紫?」

「なかなか覚えやすい名前ね」

その後、横山紫はその書類を持って山本正博の前に歩み寄り、小声で言った。「山本坊ちゃん、あなたも署名してください。山田さんの名義の財産を放棄する意思表示として」

山本正博は片手で書類を取り、彼女を軽く一瞥してから、ペンを取って書類に流麗な署名を残した。

まだ温かいペンを受け取った横山紫の顔が、抑えきれないほど熱くなった。彼女はそのペンを慎重にポケットにしまった。

全過程はわずか数分だったが、すでに結論が出た。吉田蘭は名義の財産をすべて池村琴子に譲渡した。

吉田蘭は協議書に署名を終えると、全身の力が抜けたように崩れ落ちた。「琴子、牛肉麺を作ってくれない?あなたの作る牛肉麺が食べたくなったわ」

池村琴子は目が赤くなり、キッチンに向かって牛肉ラーメンを作り始めた。

このラーメンは彼女の得意料理で、以前は義母と一緒に山本正博の帰りを待つ時、義母が空腹を訴えると手作りの牛肉麺を作っていた。

山本正博と離婚してからは、めったに料理をしなくなっていた。

麺を細く伸ばし、鍋で茹で、牛肉をスライスして、肉片を湯がいて取り出し、青ねぎをかける。すぐに、澄んだ出汁の効いた牛肉ラーメンが完成した。

池村琴子は麺を持って出てきたが、手が少し油っぽく感じたので、メイドに麺を渡し、自分は隣のトイレに向かって手を洗おうとした。

このトイレは使用人用で、彼女はめったに入ることはなかった。

入ってみると、横山紫がドア際に寄りかかって、何かを手に持って見つめていた。

池村琴子が挨拶しようとした時、携帯が鳴り出した。

横山紫は急に振り返り、手に持っていたものを素早く隠した。

池村琴子は申し訳なさそうに微笑み、電話に出た。

「あの四郎という男がまだ見つからないのか?」近籐正明の声にはいらだちが満ちていた。「私に任せてくれ、探してやる」

他人がいる場所だったので、池村琴子は考えてから淡々と言った。「その件は数日後に話しましょう」

高橋姉帰は明日には古い家に送られる。何か問題があったとしても、今はすぐには波風を立てられないはず。今は他にもっと重要な問題を解決する必要がある。

近籐正明がまだ何か言おうとしたが、池村琴子は静かに言った。「今は用事があるので、明日また電話します」

そう言って電話を切った。