鈴木之恵はキッチンを片付け、エプロンを脱いでキッチンから出てきた。
「救急箱はどこ?膝を見てあげるわ」
藤田深志は我に返った。この嘘は自分の私心を満たすためだけだったのに、まさか彼女がこんなに真剣に受け止めるとは。
「この家にはあまり住んでないから、救急箱はまだ用意してないんだ。之恵、大丈夫だから、先に休んでいて」
「私は疲れてないわ。まず消毒してあげる」
鈴木之恵はそう言いながら、リビングの棚から赤い十字が描かれた箱を見つけ出して上下に眺めた。
「これは救急箱じゃないの?」
藤田深志は喉を鳴らした。やはり一つの嘘は百の嘘で埋め合わせなければならない。
「家にあったの忘れてた」
鈴木之恵は彼の居心地の悪そうな表情に気付かず、救急箱を持ってきてソファで彼のズボンの裾をめくろうとした。
藤田深志は止められず、黒いスーツのズボンが膝まで捲られた。
鈴木之恵はその細い脚を見つめて呆然とした。
「藤田深志、あなた私を騙したわね!」
藤田深志は彼女の目を直視できなかった。彼女の声には威圧感があり、まるで「藤田深志、もうおしまいよ!」と言っているようだった。
妻を騙すなんて、一生正式な関係になれないわよ!
鈴木之恵は声を数デシベル上げてさらに言った。
「あなたの膝は何ともないじゃない。傷一つないのに、どうして嘘をついたの?」
藤田深志は頭皮がちくちくして、頭が高速で回転した。もし柏木正がこんな状況に遭遇したらどうするだろうと想像した。あの役立たずの助手なら、きっとすぐにソファで土下座して、妻の腕を抱きしめて泣きながら許しを請い、「愛してる」を一万回言うだろう。
そんなことは彼にはできない。どう考えてもちょっと気持ち悪い。
「之恵……」
藤田深志は困惑して彼女の名前を呼び、先ほどの嘘をついた時の心理を説明した。
「君が僕を大切にしてくれた日々が恋しくて、君に心配してもらいたかった。僕を可愛がってくれないかな?」
鈴木之恵は唇を舐めた。この様子の藤田深志は全く傲慢な社長らしくなく、卑屈に愛を求めていた。彼女は突然、京都府にいた時の、彼が発作を起こして弱っていた姿を思い出した。彼はプライドが高すぎて、病人であることを忘れさせてしまうほどだった。
鈴木之恵は数秒呆然として、彼を抱きしめた。