「せっかくの結婚記念日に、旦那さんがいないなんて、辛いでしょう?」
「旦那さんに嫌われて、五年も独り寝。それでよく我慢できましたね!」
「あなたが待ち続けている人が、今誰と一緒にいるのか、知りたくないのですか?」
……
神崎弥香はダイニングテーブルに座り、次々と見知らぬ人からの友達申請を受け取った。ブロックしようとした瞬間、相手からまた一言が届いた。
「私、妊娠しました。神崎翔の子です!」
神崎弥香は息を詰まらせ、全身の震えが止まらなかった。彼女は顔は真っ青となり、強く噛みしめた唇から血が滲んだ。
しばらくして、彼女は相手を友達として追加した。
神崎弥香は相手の投稿を開いた。投稿は十数件程度で、最も古いものは4ヶ月前だった。
どの投稿も9枚の写真で構成され、内容はイチャつきか、ジュエリーやブランド品、グルメや景色ばかりで、顔を見せる写真は一枚もなかった。
神崎弥香は一つ一つの投稿を丹念に確認し、写真を拡大していった。するとすぐに、その女性が投稿したグルメの写真に不自然な点を見つけた。
ワイングラスに映り込んでいた男性の腕時計は、リシャール・ミルの限定モデルだった。この時計は世界限定10本で、神崎翔も1本所有しており、彼の多くの時計の中で最も頻繁に使用しているものだった。
神崎弥香は神崎翔が帰宅しなかった日付と照らし合わせ、すぐに全てを理解した。彼が家に帰らなかった夜は、全てこの女性と過ごしていたのだ。
彼女が相手とのチャットを開くと、メッセージを送る前に、相手から位置情報が送られてきた。
神崎弥香はテーブルの上の丹精込めて作った料理を見つめた。その瞳は冷たく変わった。それらは彼女と神崎翔の関係のようだった。表面は華やかでも、実際はとっくに冷め切っていた。
彼女は躊躇することなく、立ち上がって車を走らせ、ナイトクラブへ向かった。
高級クラブの個室のドアの前で、神崎弥香は閉ざされたドアを見つめ、心臓が激しく鼓動した。
このドアを開けたら、彼女と神崎翔は二度と元には戻れないかもしれないことを、彼女にはよく分かっている。
神崎弥香がドアノブに手をかけた瞬間、部屋の中から冗談めいた声が聞こえてきた。
「おや!翔さん、それはあんまりだって。まさか触り始めるなんて、俺たちの前だぞ」
「そうだよ!昼間から堂々と、こんなところで18禁シーンを演じるなんて、呆れたぜ。そういうことは、奥様と家でやってくださいよ」
「俺が翔さんを知って何年になるかな、こんなに夢中になってる女性は初めて見たよ。これは本物の愛だね!」
話していた二人の男性は神崎翔の普段からの友人で、神崎弥香は手を引っ込め、指を手のひらに食い込ませるほど、拳を握りしめた。
その後、甘ったるい声が漂ってきた。「もう、からかわないでください。奥様だなんて、綾乃には、重すぎた肩書きですよ!」
神崎弥香は目を沈ませた。なるほど、彼女か。芸能界で今勢いのある清純派女優だ。
「分かってるなら良い。翔には家庭があり、妻がいるぞ。彼らは家族の政略結婚だったんだ、離婚はありえない」
冷たくて少し真剣そうな男性の声が聞こえた。神崎弥香は眉を上げた。川辺遥真?彼は海外から帰ってきたの?
「奥様、遥真はいつもそういう話し方なんだから、気にしないでくれ。翔さんの心は完全にあなたのものだぞ。そんな意味のない肩書きなんて、無用の長物だろう?」
「そうそう!家にいるあの人は、ただの飾りものでしかないって、みんな知ってるから。大人しくて扱いやすいから追い出されてないだけで、翔さんとっくに愛想尽かしたよ」
「大輔、言葉を慎め!」
「遥真、なんでそんなに怒るんだ?当時、彼女が藤上家のお嬢様として、科学大学でやらかしたあの恥ずべき行為は、大学中の誰もが知っている話だったぞ。翔さんが婚約を守って彼女と結婚したのも、譲歩してあげたんだ。そんな彼女に触れるはずがない」
そこで彼は自分の失言に気づき、部屋は一瞬静まり返った。
しばらくして、馴染みのある声が聞こえてきた。「遥真、お前、随分と彼女を庇うんだな。まあ、俺は彼女の顔を見るのにも飽きたし、あんな汚い女でもいいのなら、お前にくれてやっても構わないぞ」
「神崎翔、何を言っているんだ!」
神崎弥香の表情に悲しみが浮かんだ。その後の会話は、もう聞く気はなくなった。
彼女はゆっくりと振り返り、魂の抜けたような様子でクラブを後にした。
……
午前3時、神崎翔が帰宅した。ダイニングテーブルに座る神崎弥香と手付かずの料理を見て、スーツの上着を適当に椅子に掛けた。
ネクタイを緩めながら、彼は冷たく言った。「もう食べてきた。前から言ってるだろう、遅くなるときは待たなくていいと」
「外で満腹になったから、家に帰っても、お腹が空かないのは当然ね」
神崎弥香は何気なく目を上げ、二重の意味を込めて言い返した。
神崎翔は彼女を一瞥し、記念日を一緒に過ごせなかったことで、機嫌を損ねているのだと思い込んだ。
彼はズボンのポケットから小さな箱を取り出してテーブルに置き、形だけの言葉を述べた。「結婚5周年おめでとう。夜はビジネスで忙しくて、メッセージの返信も忘れてしまったんだ。これから資料を確認しなければならないから、書斎で寝る」
言い終わると、彼はそれ以上留まることなく、素早く階段を上がっていった。神崎弥香は彼の去っていく背中を見つめ、目の輝きが徐々に失われていった。
彼女は箱を開けた。中にはティファニーのラブコレクションのブレスレットが入っていた。手首に着けてみると、一周り大きすぎた。
彼女は自嘲的に笑った。神崎翔は彼女のことを考える手間すら惜しんでいたのだから。
夜が明けかける頃、神崎弥香はダイニングテーブルを離れ、2階の寝室へ向かった。クローゼットを開け、荷物をまとめ始めた。
この家で過ごした5年間、最後に持ち出すものは小さなスーツケース一つ分だけだった。
神崎翔が彼女にプレゼントした高価なバッグやアクセサリーは、スーツケースには入れなかった。彼が心から進んでくれたものではないのだから、自分を苦しめるために持っていく必要はなかった。
翌朝
神崎翔が階下に降りてくると、キッチンで忙しく立ち働く神崎弥香と豪華な朝食が並んだテーブルが目に入った。彼は軽蔑的な表情でテーブルに着いた。
彼は胃腸炎を患っており、神崎弥香は彼の胃を治すため、結婚後、有望な将来を自ら諦めて専業主婦になった。
彼女は毎朝早起きして、工夫を凝らした栄養満点の食事を作っていた。なのに彼は少しも感動することなく、むしろ心の底から彼女を軽蔑していた。
結婚してまもなく藤上家が没落した。彼女がこれほど必死に彼の機嫌を取るのは、ただ彼という大木にしがみつきたいだけだ。まるであの時のように、コンテストに勝つために自分の体で審査員を買収したように。
最後の一品がテーブルに並んだ後、神崎翔は淡々と口を開いた。「家政婦さんに頼んでも同じことだ。そこまで苦労する必要はない」
神崎弥香は目の前のスラックスと白いシャツ姿の神崎翔を見つめた。彼は優れた体格と容姿を持ち、気品のある冷たさを漂わせていた。クズ男だとしても、彼は十分に魅力的で目を引く存在であることは、認めざるを得ない。
数秒の沈黙の後、神崎弥香は席に着き、落ち着いた声で口を開いた。「ええ、これが最後の手料理ですから」
お粥を取ろうとした神崎翔の手が一瞬止まった。彼は無関心そうに言った。「分かってくれるなら、何よりだ」
「十分に分かりましたよ!」神崎弥香はお粥を彼の前に置き、真剣な眼差しで彼を見つめた。「離婚しましょう」
神崎翔はエビ粥を一口飲み、軽蔑的に眉を上げた。「何だって?」
神崎弥香は少し声を上げ、一文字ずつはっきりと繰り返した。「離婚しましょう!」
神崎翔は目すら上げず、ナプキンで口を拭いながら冷淡な声で言った。「本当にそれで良いのか?」
「今日中に別荘から出て行きます。離婚協議書が準備できたら送ります」
神崎翔は顔を上げて彼女を見つめ、無表情のままもう一度確認した。「よく考えた結果だろうな?俺は一度切った縁は二度と繋がない人だぞ!」
神崎弥香は圧迫感のある彼の目を見返し、淡く微笑んだ。「私もです!」
「いいだろう、後で後悔して、俺に土下座しても無駄だぞ!」神崎翔はそう言い捨て、テーブルから立ち上がった。
ドアが強く閉められ、しばらくすると外から車のエンジン音が聞こえた。
神崎弥香は表情を変えず、箸を取ってテーブルに静かに座り、食事を始めた。まるで何事もなかったかのように。
結婚して5年、彼女は一人で何度も冷めた食事を食べてきた。しかし今回だけは、悲しみも辛さも感じなかった。
人は適切な時期に目覚め、全てに納得しなければならない。これからは、誰かを待つ必要もない。
出かける前に、神崎弥香は結婚記念日のために用意した華々しい黒のミニスカートに着替えた。丁寧にメイクを施し、ヌードカラーのハイヒールを履き、いつも束ねていた髪を解いた。
彼女は鏡の中の自分を長い間見つめ、やがて微笑んだ。
その後、スーツケースを手に取り、大きな足取りで階下へ向かった。玄関に着くと、車のキーを置いた。その高級スポーツカーは神崎翔が求婚時に贈ったものだったが、今こそ持ち主に返す時が来たのだ。
外に出て、神崎弥香は丘の中腹にある別荘を振り返った。突然、重荷から解放されたような感覚に襲われた。
彼女が携帯電話を手に取ったその瞬間、画面が明るくなった。フランスにいる先輩の佐藤浩二からニュースのリンクが送られてきた。
リンクを開くと、記事の大見出しが彼女の目を引いた。「第13回全国香道技能競技大会開催!伝統工芸継承者を求む!」
神崎弥香はリンクを閉じ、内容は読まなかった。携帯を閉じようとした瞬間、佐藤浩二からのメッセージが届いた。
「弥香、僕は大会に参加するために帰国するつもりだ。君はうちの同級生の中で一番優秀だったのに、今回も参加しないつもりかい?」
「それと、鈴木智恵も参加するらしい」
神崎弥香のまつげが震え、凍りついていた記憶が一気に押し寄せてきた。