第007章 埃一つでも目に入ったら許さない

光秀が料理を床にぶちまけたあと、林田おばさんは慌てて割れた皿や散らばった料理を片付けていた。

だが、その直後に投げつけられた男の言葉に、動きが止まった。「綾瀬さん、本当に、本当に申し訳ありません!」彼女はうろたえながら、何度も頭を下げた。

光秀は財布から分厚い札束を取り出し、それをテーブルに乱暴に叩きつけた。「これを持って、今すぐ出て行け」

林田おばさんはただの中年の家政婦にすぎない。大財閥の御曹司が怒りをあらわにしている前で、反論するなんて到底できるはずもなかった。

彼女は金を手に取り、怯えたように優奈を一瞥してから、足早にその場を立ち去った。

そして、光秀は視線を優奈に向けた。「お前は家事が好きなんだろう?だったら床の物を全部きれいに片付けろ。この別荘の掃除は、これから全部お前の仕事だ。埃一つでも目に入ったら許さない」

優奈は唇をきつく噛み、何も言わずにしゃがみ込むと、床に散らばった陶器の欠片を黙々と拾い始めた。心の中では悔しさを抑えながら、思わず呟いた。「人を馬鹿にし過ぎる」

光秀は眉をしかめた。「今、何て言った?」

優奈は顔を上げ、男に向かって作り笑いを浮かべた。「いえ。分かりました、今片付けます」

光秀は冷ややかな目で彼女を一瞥すると、別荘を出て行った。

優奈は物を片付けた後、階段を上って服を着替えた。

姿見の前に立ち、ふと胸の傷跡が目に入り、無意識のうちに手で触れてみた。

3年前、彼女は人を助けようとして、胸に銃弾を受けた。弾丸を摘出した医師は、「運が良かった」と言い、もう少し位置がズレていれば命はなかっただろうと言った。

結果的に、彼女は奇跡的に生き延びた。そのときの傷痕は、今もなお彼女の胸に残っている。

優奈はそれ以上感傷に浸ることなく、さっと服を着替えると、階下へと向かった。

実は光秀は知らないが、彼女も今、綾瀬グループに勤めており、営業部の一社員として働いている。

そして、その職場で綾瀬陽向と知り合い、数々の偶然が重なった末に、綾瀬光秀と結婚することになったのだった。

……

優奈は綾瀬グループに到着し、タイムカードを押した後、直接マネージャーのオフィスへ向かった。

どんなことがあっても、祖母の老人ホームの費用は期限通りに支払わなければならない。

マネージャーのオフィス外に立ち、ドアをノックしようとした瞬間、誰かに腕を引かれた。

優奈が振り向くと、同じ部署の林田陽子(はやしだ ようこ)がいて、驚いて尋ねた。「何で引っ張るの?」

陽子はマネージャーのオフィスを指差し、少し大げさな顔で言った。「知らないの?今あの綾瀬社長が中にいるんだから。マネージャーに用事があるなら、出てくるのを待ったほうがいいって」

優奈は思わず目を瞬いた。光秀が自分の上司の部屋にいるなんて…どこにでも現れるんだから、本当に鬱陶しい。

けれど、その気持ちは表に出さず、にこりと微笑んで陽子に頷いた。「そっか、ありがと。じゃあ、ちょっとここで待ってるね」

そう言って、近くの椅子に腰を下ろし、静かに時間が過ぎるのを待った。

陽子はそのまま隣に座り、声を潜めてゴシップを始めた。「ねえ優奈、知ってる?綾瀬社長って、めっちゃイケメンらしいよ。なんか、ドラマに出てくる『無愛想で禁欲的なエリート社長』って感じで、見た瞬間に飛びつきたくなるレベルなんだって。しかも頭もキレるし、あの綾瀬グループをバッチリ仕切ってるんだから、やっぱり只者じゃないよね~」

優奈は心の中で小さく嘲笑った。

イケメン?禁欲的?飛びつく?

ああ、それ、全部陽子の中だけの幻想ね。

少なくとも彼女にとっての綾瀬光秀は――冷たい、孤立してる、横柄、理不尽、乱暴で、手が出るタイプ。避けられるなら絶対に避ける。避けられなければ、速攻で逃げる。そんな存在だった。

そのとき、オフィスのドアが突然開いた。優奈は反射的に顔を伏せて、手元の書類に視線を落とす。

なのに、陽子はおかまいなしに彼女の腕を引っ張り始めた。「優奈、出てきたよ!見て見て、うわっ、なにあれ、かっこよすぎ……!」