八月のある日、鈴木音夢は永崎大学の合格通知書を受け取り、その興奮に包まれたまま、古びた自転車で家に帰ってきた。
しかし玄関に入る前に、中から喧嘩の声が聞こえてきた。「父さん、それ以上私を追い詰めると、死んでみせるわよ」
「まだわがまま言うのか?うちら全員を道連れにする気か?あの卓田家は、怒らせていい相手じゃないんだぞ」
その時、手に包丁を持った鈴木玉子は、玄関に立っている鈴木音夢の存在に気が付き、まるで救世主を見つけたかのような表情に変わった。
彼女はソファから飛び降り、親しげに音夢の手を取った。
「音夢、ちょうど良いところに帰ってきたわね。私と同じ年に生まれたんだし、血液型も同じでしょ。実はね、卓田家に見込まれて、卓田坊ちゃまの世話をしてほしいって」
音夢も当然馬鹿じゃない。さっきまで玉子が包丁を持って死ぬとか口にしていたが、それはきっと、卓田家に選ばれたのは彼女だったからだ。
そんなにうまい話なら、玉子が真っ先に行きたがるはずだ。自分に回ってくるわけがない。
立林絹子はもちろん、自分の実の娘を交通事故で重傷を負った男性に、厄除け結婚相手として送りたくなかった。その男性がどれほどの大金持ちでも。
しかも事故のせいで、あそこまで傷んだと聞いた。あれじゃ将来結婚しても、夫がいながらも、事実上の未亡人になる運命だろう。
そう思うと、絹子は音夢をちらりと見た。鈴木家は彼女を何年も育ててきた。そろそろこの家のために貢献する時だ。
彼女は鈴木国彦に目配せすると、国彦は眉をひそめた。卓田家は占いの結果を信じ込み、玉子の方を選んだはずだ。音夢が代わって大丈夫なのか?
国彦が躊躇しているのを見て、絹子は彼を脇に引っ張った。「どうせ二人とも同じ年に生まれたんだから大差ないわ。まさか本当に実の娘を廃人の男と結婚させたいの?」
二人は声を潜めていたが、音夢はそれでも聞こえた。「父さん、卓田家が選んだのは姉さんであって私じゃないのよ。だから姉さんの代わりに行くつもりはないわ」
絹子は近づいてきて、いきなり平手打ちをした。「鈴木家で何年も無駄喰いをしてきたくせに、口答えをする資格はないわ」
そう言うと、絹子は彼女のポケットから合格通知書を引き抜いた。永崎大学に合格したことに気付くと、余計に腹が立った。
「しかも大学に行きたいって?夢見すぎよ!結婚に行かないのなら、あんたもその弟も、路上で物乞いでもしてなさい!」
国彦は音夢を見て、眉をさらに深くしかめてから、心の中で決心したようだ。
「音夢、明日は姉さんの代わりに卓田家へ行け。さもなければ、お前と弟への経済的支援をすべて切るぞ」
音夢は火照った頬を押さえながら、自分の耳を疑った。
彼女は思わず大声で叫んだ。「父さん、私は本当にあなたの娘なの?」
音夢の母親である林暁美は国彦の先妻で、世介を産む時に難産で亡くなった。
暁美が亡くなってから3ヶ月も経たないうちに、国彦は絹子を迎え入れた。音夢は本当に自分が国彦の実の娘なのかと疑っていた。
「音夢、一生のお願いよ。あの卓田家は、結構裕福な家なのよ。ただ卓田坊ちゃまが事故に遭って、私との相性がいいって言われただけ。でも卓田坊ちゃまのアレが壊れちゃったから、私…私はそんな寂しい生活は嫌よ。それに、看病は私よりあなたの方が経験豊富でしょ。卓田坊ちゃまが回復したら、自由にしてくれるわよ」
玉子は生まれてこのかた、初めてこんな頼み込むような口調で音夢に話しかけた。
「卓田家に行かせるなんて、あんたにとってはむしろ得なことよ。それでも断るなら、今すぐ荷物をまとめて、弟と共に出て行きなさい」
絹子は音夢に対して優しくする気はなかった。彼女の目には、音夢は目のかたきのような存在だ。
「音夢、卓田家のご先祖とうちのご先祖とは義兄弟の仲だ。つまり、卓田越彦はお前の義理の叔父にあたる男だ。そんな彼の世話をするだけで、卓田家はお前を粗末には扱わないだろう」
国彦はなるべく声を抑えていた。確かに卓田家と鈴木家は代々の付き合いがある。
しかし卓田家は玉子に厄除け結婚をさせるために、十億まで払ってくれた。彼はどうしてもその十億を手放したくなかった。
それに、卓田家を怒らせた人は、果たして永崎城でやっていけるだろうか?
音夢は思わず拳を握りしめた。彼女はやっと大学の合格通知書を手に入れたばかりだ。
しかし彼女が大学をやめてもいいが、弟はまだ高校1年生だ。弟が高校すら通えなくようにはしたくなかった。
今の彼女の状況では、自分と弟を養うことはできないし、彼の学費を払うこともできない。
彼女にはよく知っている。自分が結婚に行かなければ、この一家は本当に脅しの内容を実行し、何とかして彼女を追い詰めると。
音夢はしばらく考えた。どうせ卓田坊ちゃまのあそこが壊れているのだから、せいぜい怪我人の世話をするだけで済む話だ。
彼女は歯を食いしばって承諾した。「わかったわ、行くから!」
「そうそう、いい子だ。ただしこれだけは忘れるなよ、外では鈴木玉子だと名乗れ。さもないと、事実を知った卓田家が何をしてくるかは、父さんにも分からないぞ。卓田家は、決して敵に回していい相手じゃないから」