第576章 彼女を苦しめたくない

氷川泉の気迫は少し恐ろしく、暁美さんは慌てて頷いた。「はい、社長」

そう言いながら、彼女は申し訳なさそうに林薫織を一瞥し、薫理を抱き上げて、近くの車へと大股で歩いていった。

暁美さんに抱き上げられた薫理は、林薫織がまだその場に立ったままで、ついてこないのを見て、何が起きているのか分からず、小さな手を林薫織に向かって必死に伸ばした。「ママ、ママ！ママがいい！」

「ママとパパはまだ話し合うことがあるの。すぐに来るから、先に車に乗りましょう。いい子だから」

「本当？」

暁美さんは薫理の無邪気で無垢な顔をじっと見て、少し忍びなかったが、それでも嘘をついた。「うん」

林薫織は暁美さんが薫理を抱いて車に乗ろうとするのを見て、阻止しようと前に進んだが、男に腕をつかまれ、よろめいて思いがけず男の胸に倒れ込んだ。

この光景はちょうど薫理の目に入った。幼稚園の友達が言うには、彼らのパパとママはよく抱き合って、それから……

薫理は小さな顔を暁美さんに向け、目をパチクリさせながら尋ねた。「パパとママはキスするの？」

暁美さんは薫理の突然の質問に一瞬戸惑い、少し気まずそうに軽く咳をして、それから頷いた。

「じゃあ、もうすぐ僕に弟ができるの？」薫理はさらに質問を続けた。

「それは……どうして知ってるの？」

「阿部くんが教えてくれたの。阿部くんのパパとママが抱き合ってキスした後に、弟が生まれたって」

暁美さんは苦笑いを浮かべた。子供の口に戸は立てられないとはまさにこのことだ。

馴染みのある香りが鼻をくすぐり、男は少し我を忘れかけたが、次の瞬間、林薫織に強く押しのけられた。

林薫織は彼を恨めしそうに睨みつけた。「氷川泉、こんなことで薫理をあなたの側に置けると思わないで。言っておくけど、私はいつか必ず娘の親権を取り戻すわ」

「いいだろう、その時を楽しみにしているよ」

薫理と会えなかった林薫織は不満を抱えたまま立ち去った。

薫理は林薫織が別の車に乗り込むのを見て、やっと状況を理解し、大声で泣き始めた。「ママがいい、ママがいい！うわーん……」

暁美さんは薫理をなだめるのに長い時間がかかり、ようやく彼女の泣き声を止めることができた。

彼女は目を伏せて隣の氷川泉を見て、小さな声で言った。「社長、林さんを呼び戻した方がいいのでは……」