これは彼女が今まで嗅いだことのない香りだった。
彼女は野井北尾が何か新しい料理を研究したのだと思っていた。これまではいつも野井北尾が自分を起こしてくれていたのだから。
今日は目覚まし時計で起き、洗面を済ませても野井北尾の姿が見えなかった。
彼女はそのままキッチンへ向かうと、案の定、かすかに高い人影が見えた。
視界が完全に開けて、キッチンにいる人を見た田口優里の言葉は途中で止まった。「いい匂い!何を作って...」
彼女は松下牧野を見た。
一瞬、田口優里は自分がまだ目を覚ましていないのかと思った。
しかし、続いて野井北尾も目に入った。
彼女はまばたきをし、表情には無邪気さと戸惑いが浮かんでいた。
松下牧野はまだ忙しそうにしていたが、野井北尾が先に彼女に気づいた。
彼は急いで手を拭き、大股で歩み寄ってきた。「起きたの?お腹すいた?」
松下牧野は物音に気づき、振り返って彼女を見た。
田口優里と目が合った。
田口優里の目が一瞬揺らぎ、素早く視線をそらした。
彼女は朝早くから自分の家のキッチンで松下牧野に会う心の準備が全くできていなかった。
家はあまりにもプライベートな場所だ。
キッチンだって客をもてなす場所ではない。
田口優里は目を伏せ、何を言えばいいのか分からなかった。
松下牧野は彼女の反応を見て、すぐに手足がすくんでしまった。
ビジネス界で風雲児として名を馳せる大物なのに、この時ばかりは落ち着かない子供のようだった。
野井北尾は二人のこの様子を見て、間に挟まれて困り果てていた。
彼は訪ねてきた松下牧野を追い出すわけにもいかないし、同様に、田口優里に偏見を捨てるよう説得することもできなかった。
言ってみれば、二人とも苦しい立場で、どちらも難しい状況にあった。
私心から言えば、野井北尾は二人が和解することを望んでいた。
松下牧野はきっと田口優里を大切にするだろう。
田口優里が欠けていた父親の愛情も、取り戻せるだろう。
しかし彼も知っていた、これには時間が必要だということを。
そして松下牧野の努力も必要だった。
これ以上気まずい状況を続けるわけにはいかない。野井北尾は急いで口を開いた。「優里ちゃん、今日の朝食は...松下社長が作ったんだ。後で食べてみて、好きかどうか教えてね。」