第一話

石畳にしんとした朝の光が射している。

大坂御坊の一室、硯の墨は乾きかけていた。

顕如は筆を置き、部屋の隅に控える男へ目をやった。

「下間。織田は今、誰と戦っているか」

名を呼ばれた下間頼廉は、眉をひそめつつ即答した。

「備中にて毛利と対峙しております。加えて、越後には上杉、東には北条と徳川の不安も残っております。さながら多面作戦」

「ふむ。その戦の費は、どこから出ておる?」

「諸国からの上納金、徴税、寺社の抑え――それと、織田家振り出しの信用状。いわゆる、債券でありますな」

顕如は、文机の上にあった一通の証文を指先で弾いた。朱印が押され、几帳面な筆致で金額が記されている。

「では、その証文がただの紙切れだったとしたら?」

下間は息を止めた。ほんのわずかな沈黙ののち、静かに答えた。

「……織田は、たちどころに滅びましょうな」

顕如はそれ以上、何も言わなかった。

その沈黙が、全てを物語っていた。

伊賀は、地図に描かれぬ裂け目のような土地である。

谷は声を吸い、霧は火を隠す。そこに生きる者たちは、太陽の下ではなく、影に生きる術を選んだ。誰もが忍びでなくとも、誰もが忍びのように暮らしていた。

だがその静けさは、一度踏みにじられた。

天正六年、第一次伊賀の乱。

織田信雄は、父信長の威光を借り、理も計画もないまま伊賀を踏みにじった。

あれは戦と呼ぶには愚かすぎた。信雄自身でさえ、あの出兵にいかなる意義があったのか、晩年まで語ることはなかったという。

焼かれたのは屋敷だけではない。

谷に逃げる途中、山中で落命した子女たち。女は陵辱され、子は首を晒された。

血と炎に塗れたあの日以来、伊賀者にとって「織田」という名は、憎悪そのものとなった。

百地三太夫も、その日、声を失くした一人だった。

主だった者を失い、谷を背に逃れながら、彼は心に一つの火を抱えた――復讐ではない。ただ「忘れぬ」という念だけが残った。

その三太夫のもとに、今、風が舞い戻る。

大坂からの使者は、文を差し出し、言う。

「銭は、無尽にございます。謝礼も言い値で」

三太夫は返さない。囲炉裏の炭を火箸で一つ崩しただけだった。

伊賀の者たちは語らない。だが、その夜三太夫は一族の若者たちに盃を渡した。

「起こすぞ」とは言わなかった。ただ、酒を注いだ。それだけで皆が悟った。

伊賀にとって、風を起こすのは技であり、生であり、誇りであった。

だがこの風は、遊びではない。これは記憶の風だ。子らの、母らの、燃えた屋根の、名もなき者たちの風。

こうして、伊賀は再び動いた。今度は、煙も血も立たぬ戦で。

銭と噂と証文の、静かな“いくさ”の幕が、山の底で上がった。

京は、表の都である。商いがあり、噂があり、人の暮らしがある。

そのどこに火種があるのか、誰も知らない。ただ、風が吹けば砂が舞い、砂が舞えば目が開かぬ。

ある日、堺の油商が、証文を担保にした米の大口取引を見送りにした。

「尾張の紙では、いまは少し……」そう口ごもっただけで、言葉の裏は語られなかった。

四条河原の市では、小さな両替屋が織田家の証文の換金率をひそかに一割落とした。

「蔵の銀が出ぬそうじゃ」

「いや、あれは武田に備えて絞っておるだけじゃろう」

「けどよ、あの鉄砲鍛冶の庄七も、尾張紙を売ったらしいぜ」

噂は断定せぬ。だが、連なる。誰もが「聞いた」と言い、「本当か」と訊き、「そうかもしれぬ」と頷く。

その声の端々に、誰とも知れぬ影がいた。

ひとりは、町茶屋の下働きに紛れた伊賀の若者。

ひとりは、薬売りを装った伊賀の娘。

彼らが「市に流す」ことなど、一言の会話で済む。目線ひとつ、つぶやきひとつ。それだけで、市は波立つ。

市の声が乾いてゆく。銭が硬くなる。証文が重くなる。

誰も言わぬが、皆が思い始める。「織田は、いま、金が無いのではないか」と。

そして――誰もが気づかぬうちに、売りが始まった。

夜気が杉林を沈ませていた。伊賀の山中、獣道を折れたさらに奥。草を刈りならした地に、古びた庵がぽつりと建つ。

囲炉裏に火が灯っていた。赤黒い炭がぱちりと弾けるたび、影が板間を揺らした。

「売りはじまったな」

百地三太夫が口を開いた。声は低く、乾いていた。

「はい。京の両替屋が、尾張の証文を嫌がり始めました。堺の米問屋も静かに手を引きかけている」

そう答えたのは服部半蔵、まだ二十代。

若く鋭い目が、寒空にかかる三日月よりも冷たかった。

三太夫は火箸で炭を転がしながら、何も言わずにいた。

やがて、ぽつりと漏らす。

「……戦(いくさ)もせず、兵も動かさず、ただ“言”を撒くだけで敵を崩せるかもしれぬ。まこと、よき世になった」

半蔵がわずかに笑う。

「伊賀者の本分。これしきのこと、我らなら児戯に等しゅうございます」

その言葉に、三太夫もわずかに口角を上げた。だがすぐに真顔に戻る。

「次の種は?」

半蔵は懐から細巻きの紙を取り出し、火にかざして読み上げる。

「“安土の銀蔵、既に空なり”」

「“信長、帝の普請命を断る”」

「“堺に金が落ちず、摂津で兵糧詰まる”」

三太夫は黙って耳を傾けた。

紙が火にかざされたまま、じわじわと焦げる。半蔵はそれを囲炉裏に落とし、火に喰わせた。

「声は誰に乗せる」

「女傾奇と、禿に化けた者が京におります。寺町筋と西陣、それぞれ昼と夕刻に声を撒く。噂の種は同じ、語り口は変える。風が吹けば、市は勝手に燃え上がるでしょう」

三太夫は頷いた。

「よい。“風”には“火”を。だが、“煙”を先に立てよ。人は煙におびえ、火を待たずに逃げ出す」

囲炉裏の炭がはぜた。

外はもう深夜、山の匂いが重く染みる。

服部半蔵は立ち上がり、軽く一礼した。

「……あの戦の折、焼けた谷を見ました。名もなき子女が、幾人も倒れていた。忘れてはおりません」

三太夫は何も言わなかった。ただ、じっと囲炉裏の火を見つめ続けていた。