潜水

濁った水面は波濤が押し流し、砲声は潮騒に溶け消えた。

あるべき姿を取り戻した海で、いま殺戮が始まる。

渦巻く銀色の群れに、黄色いヒレをきらめかしてアジが突っ込んだ。噛み砕かれたイワシがぱちぱちと爆ぜるように白い肉を散らし、横合いから丸々としたグラントたちがかっさらう。

水面に目を向けると、腹を空かせたアジサシたちがダイヴしているのが見えた。

万年筆みたいなくちばしが魚たちを引っ掛けて海面へと連れ去っていく。そうしてかき回されて出来た流れの中でも、やはり無数の死体が身をよじっている。

艦底の破孔は機関部まで至り、暖かい海水に惹かれた節足類たちがすでに小規模なコロニーを作っていた。

いつの時代も、死骸に真っ先に群がるのは虫と鳥だ。ベルリンではカラス、メキシコではバッタ……ヒトが居るところには腐肉ができる。彼らは、よく知っている。

虫の殻を踏み潰しながらブリッジの耐圧ドアをくぐった瞬間、壁にゴムボールをぶつけるような音が聞こえてきた。

隣でシャノンが水中銃を構えた。

こちらを見てきたので、指圧式パッドに書きつけて教えてやる。

「サメだ」

アーネスト・キング級駆逐艦に入ったのは初めてだったが、前級のズムウォルトと比べるとひどく枯れた設計に感じた。汽缶のせいで突き出た煙突が古臭いのかもしれない。

まったく、どこもかしこも水死体とガラクタばかりだった。

艦橋やガンルームには何も無く、中甲板の食堂にも食い差しのタッパーがふよふよと浮いているだけだった。

シャノンは艦底も見るべきだと言ったが、あのスクラップになった機関室と洗濯室に何か残っているとは思えなかった。

これが合衆国で最後の大型水上艦だったはず。

アークトーチで融けていくCICへのドアを見つめながら、ぼんやりと亡国というものを考えていた。飛行機ごと取り寄せた輸入モデルのタイプ93を2発かましたら、ダメコンに失敗して勝手に沈んだらしい。

「吸い出してくれ」

融け落ちた鋼板を蹴破って、シャノンに指示を出す。

彼は手首からUSBケーブルを引き出して、さっさと室内のコンソールの接続口に突き刺した。

その足元を目掛けて扉の穴から水がざばざばと流れ込んでいく。

この部屋にも大量の死体が転がっていた。ピンク色の肌にたかるハエたちが、海水をかぶってもがく様を眺めていると、シャノンが空いた手でレギュレータを口から外した。

「サー、誰だって死んだらこうなります。どんなに清潔にした人間でも、その表皮はバクテリアや小さな虫の卵でコーティングされているものです」

「ん……不思議がってるように見えたか」

「本職はそのように解釈いたしました。不適切でしたか」

さあな、と言って僕はアークトーチを軽く小突いた。

「さてと。作戦記録、取得できました」

唐突にシャノンがケーブルを収納する。跳ねた潮が口に入ったらしく、紫色になった舌を出していた。

「早いな?」

「兵器のセキュリティなんてたかが知れています。戦車にもキイは無いでしょう?」

「まあいい。撤収するぞ。向こうの調査隊と鉢合わせたら面倒になる」

「撤収、了解しました」

彼はラフに敬礼をして、レギュレータを噛み直した。

浮上する途中でも、また魚群とすれ違った。今度はイワシたちだ。肉片の散らばった海中めがけて、いっぱいに口を開いている。彼らが魚雷のように裂けた艦底に入って行くのを見ているあいだに、減圧時間が終わった。

海上の「モンス・メグ」に戻ると、ボランティアの男がギアを下ろすのを手伝ってくれた。先に上がったシャノンは既にウェットスーツまで脱ぎ終えていて、全裸で甲板に腰かけながら、ヘリウムで甲高くなった声を張り上げていた。

つくづくこの人はそつがない。

イスラエルのオズ旅団ではメカ屋をやっていたらしく、ブリーチングした髪が傷だらけの顔によく似合っていた。アフリカーナのようなシナモン色の肌をしていて、広い背中はあっちこっち銃創が楕円形に盛り上がっている。

糖分補給のついでに船室に向かってみると、ドアノブに「着替え中」の赤いタグがぶら下がっていた。

構わず開けて、ウェットスーツを壁にかける。しばらくすると背後でごそごそと動く音がして、肩越しにハンドタオルが飛んできた。

「タグを掛けていたつもりでしたが」

振り向くと、第2班のロックスがジャンプスーツを半脱ぎにしたまま腕組みしていた。

洗濯していたお気に入りの眼帯がやっと乾いたらしく、潰れた片目に海賊みたいに引っ掛けている。

「僕も着替えたかったのでね」

「私を待っても良かったでしょうが」

「手と頭の作業だ」僕はうなった。「たかが下半身の機能の違いで遠慮する必要があるか?」

「これまた今日は荒れてますね。首尾はどうなんです」

「ああ」

自分のベッドに腰かけて、食べかけのカロリーバーをかじり割る。かけらを飲み込もうとしたら舌の水分が抜けていて、小さくむせてしまった。

「死体がピンク色をしていた。水をかぶった汽缶が不完全燃焼を起こしたんだ」

「換気前に退避もできないド素人どもが相手なら、ラクで良かったじゃないですか」

「役立たずに情報を握らせる馬鹿はいない。あんなのじゃ期待はできないな」

ロックスは困った顔になって腕組みを解くと、残りの服を脱ぎ去った。背を向けてウェットスーツに袖を通しながら、「じゃあ頼るなら陸軍ですか……」と呟く。

「向こうも人手不足と聞いてる。またライフルを担ぐ羽目になるかもしれない」

「今のNY市軍はマサダでしたっけ?どうせSCARと似たようなものでしょ」

ロックスは鼻を鳴らして甲板に上がって行った。

この人も、ブートキャンプの頃から変わってない。彼女のベッドをちらりと見ると、こっちは散らかし放題だった。むしろ悪化してやがる。

彼女が哨戒に行って数分後、今度はシャノンが下りてきた。

「サー、解析が終わりました……」

言いかけながら僕がペニー硬貨をシーツに落としているのを見て、珍しく苦笑する。

「そいつ、本職の上官もよくやってました」

「殴られただろう?」

「もちろんです。大尉どのは?」

「まあ、ロックスの場合は殴り足りなかったらしいな」

僕は真面目くさった顔を作った。

「あの子は現地で調達された。寝床の作り方を教える暇なんて、とてもじゃないが無かった」

「ニューヨークなのに?」

「だからだよ。自分の名前を書けるってだけで、あの頃は上物だったのさ」

解析は、と尋ねると、シャノンは操舵室の隣に置いたラップトップに案内してくれた。

シャノンが腕に埋め込んだ端子を接続すると、ディスプレイが切り替わってハクトウワシの紋章を映した。

そこからFEMAだのペンタゴンだのと定番の名前がつらつら流れて行って、最後に40ページほどの計画書が表示される。

――『レガシィ・プロジェクト』

しばらく沈黙があった。

「本物か?」

「署名は物理も電子も確認できてます」

シャノンが指の欠けた手でキイを叩く。

「最後の更新日は2149年の5月。カリフォルニアが独立したときですね。知的財産の保護プロトコル更新と受精卵バンクのスタンドアローン化が完了したところで記録が終わってます」

「座標はどこだ」

「ナヴァッサ島の沖合い20キロメートルの海底です」

聞き覚えのある場所だった。

「……バイオスフィア3か」

ラップトップの電源が落とされて、シャノンは船尾の方へと休憩しに行った。

僕も休もうと思ったが、この戦時徴用船には残念なことにタバコも酒もーーおよそ兵隊が通過儀礼のように消費するものはーー何ひとつ無いことを思い出し、ただ水を喉に通すだけで済ますことにした。

クレーンの側でロックスたちのボートが戻るのを待っているうちに、日が傾きだして、水面から一斉に鳥たちが飛び立った。

ロングアイランド湾と比べると、カリブ海の夜はひどくディジタルだ。夕凪が吹いた一瞬で太陽は水平線を落っこちて、あいだの夕焼けはどこか遠くに飛ばされてしまう。

彼方からエンジンの音が近付いてくるのを聞きながら、僕はそっと甲板に腰を下ろした。

『レガシィ・プロジェクト』

もう百年も前になるだろうか。

変わってしまった地球環境に適応できる新人類の創生。

人類のイデアの探求。黄金に輝くゲノムコード。

指を曲げると、かすかにモーターが軋んだ。ノイズまみれの視界にダメージ警告が浮かぶ。

西暦2160年。

人類は、今に至るまで何も変わっていない。