訪問

ニューヨーク市軍総司令フレア=ノイマンが僕のもとに来たのは、駆逐艦の調査から2ヶ月後のことだった。

小隊訓練の報告をまとめ、クイーンズヴィレッジの駅から吐き出されたら、バイクでいつものパン屋に寄り、サブサンドイッチ用のロールパンとビターレモンの瓶を抱えて219番街のアパルトマンに戻る。

気分次第で瓶の中身はサケやビーフィーターのジンになる。パンもガムやマフィンに変わったりするが、その他はここ40年のあいだ目立った変化がないルーティンだ。

この街ではみんな同じような顔をしている。

同じ笑顔を浮かべる店員から、お決まりのメニューを受け取り、似たようなニタつき面を貼り付けた警察に駐車違反を切られる。まったく気が狂いそうで仕方がない。

今日も玄関に野良ネコが座っていたので、頭のてっぺんを掻いてやった。

彼はしばらく気持ちよさそうにしていたが、やがて「みい」と鳴いて暗くなった外に走り出した。かなり前から腎臓を悪くしているせいで、だぶついた腹が重そうだった。

人間連中と違って、こいつだけは、ちゃんと見分けがつく。名前はまだ無いが。

エレベーターの前にはスーツ姿の女が立っていた。

「お待ちしておりました、オーガスト大尉」

彼女もいつものように柔らかく言って、錆びついた2Fのボタンを押した。

紙袋を抱え直すふりをしてうかがう。

そういえばこの娘さんも、見分けがつく人間のひとりだった。

今どき珍しい天然ものの外皮を使っているから、彼女の首すじからはうっすらと汗のにおいがした。まだ睡眠不足が続いているようで、隈を隠すための化粧が分厚い。甲冑のように固く糊を利かせたスーツだって、触れたら指が切れそうだった。

エレベーターのゴンドラに揺られるあいだ、彼女はひと言も発せず、僕が部屋の鍵を開けたときに初めて「入っても?」と言った。

「本官を待っていたのでしょう」

僕はドアを開けて先を促した。

食事はと尋ねると、もう食べましたと言ってきたので、氷入りのグラスをふたつ用意してビターレモンを注いでやった。カウンターに出すと、フレア=ノイマンは上品に口を付けた。

「で、『レガシィ・プロジェクト』の話でしょうか」

僕もグラスを傾けながら立ち上がり、戸棚からカシューナッツの缶を下ろした。

「ええ。あなたもニュースを?」

「向こうの遺族団も面倒なことをしやがるもんです。ユニオンは何と?」

ユニオンの名前を出した途端、フレアは眉をひそめた。

西部アメリカ連合。

合衆国を名乗る貧乏自治州の寄せ集めだ。

かく言うこっちもNAFTAの切れ端が関税同盟として繋がっているだけなので、似たようなものだろう。思えば北米大陸もすっかりリンカン大統領の時代に逆戻りしてしまったものだ。

フレアは表情を繕うと、グラスをカウンターに置いた。

「向こうはベクタープラスミドによる遺伝子編集の特許をかさに、『レガシィ』に保管された受精卵の調査権を主張しています。このまま検査する名目で回収して、なあなあで済ますつもりでしょう」

「大したことには感じないな」

僕はナッツをかじった。「今さら周回遅れになった人間のDNAサンプルを取ったところで、根本主義者の客寄せパンダにしかならないだろう。我々には技術と労働力がある。勝手にやらせとけばいい」

「ですが、噂がもし本当なら不味いことになります」

「『超人兵士』か?」

つい鼻で笑ってしまった。

昔からよくある与太話だ。

ヒトゲノムの97パーセントを構成するジャンク遺伝子――形質に寄与しない部分を、すべて『有用な』コードに置換した無駄のない人間。そんな代物がレガシィの実験で造られた、と。

「デッドメディアの見過ぎです。これだから旧来型の資本主義はいけない」

「しかしプロパガンダには使えます」

フレアが足を組み替える。いつもながら、長い分モーメントが大きくて面倒そうな脚をしていると思う。

「無くても『ある』と言えば、彼らは縋ってしまう。そうなれば暴走は目の前です」

「……正直に言う。何をさせたい?」

僕はナッツを掴んで口に運んだ。

カウンターの向かいでフレアが指を組み合わせる。丁寧に塗られたネイルが照明に反射した。

「『レガシィ・プロジェクト』の研究成果を調査して、『何も無かった』と報告してください」

「結論ありきか」

「我々は状況をコントロールしなければなりません」

フレアの義眼の奥で絞りが開く。

「レガシィの遺物が実在しようがしまいが、不確定要素は排除されるべきです」

言うことだけ言うと、彼女はビターレモンをもう一杯だけひっかけて帰って行った。

「あなたが必要なのです」という昔の募兵ポスターみたいなセリフが、別れ際の挨拶。たぶん会った人間みんなに言ってるのだろう。

僕がふたつのグラスを食洗機にぶちこんだところで、ドアを引っかく音が聞こえてきた。

外に出てみると先ほどのネコだった。だぶだぶの腹を揺らしながら「うみぁ」と鳴いている。

「またウチで遊んでいくのか? 飯は出さないぞ」

構わないと言いたげにネコは頭を振って、部屋に入ってきた。

適当にくれてやったタオルを彼がもみくちゃにするのを眺めながら、フレアという女性について考えた。

イレギュラーが嫌いなところは彼女の祖父に似ている。

『経済の複雑性なんて、自販機にコインを入れたらスナック菓子が吐き出される程度で良い。

福祉は不公平が生じることによって必要とされる。規格化が足りていないからだ。あらゆる人間が、しかるべき入力に対してしかるべき出力を返すならば、全事象はマクロスケールで制御できるようになる』

……なるほど。

ヒトが個性的である必要はない。その結果がこの街か。

無意識に、壁に掛かっているライフルに目が向いていた。フレアの父のもとで働いていた時代のものだ。

手に取ると、非常識な重さで肩が悲鳴を上げた。

そんな僕をネコは興味なさげに一瞥して、前足を舐め始めた。僕もベッドに腰かけて、ライフルのレンジファインダーに付いた埃をウェスでぬぐった。長年使った私物だから、ポリマーの外装はどこもかしこも傷だらけだ。

XM8E1/Fury。

試作型のモジュラーライフルに、口径20mmの炸裂弾ランチャーと火器管制コンピュータ内蔵のマルチスコープを組みつけたハイテク銃。「これが本来の姿だ」と調達したやつは言っていた。

僕に言わせてみれば、車椅子のように小回りの利かないオモチャ鉄砲だった。

「まーおう」

ネコがベッドの下に潜り込んで、しまっておいたクッキー缶を引っかき出す。

傷が付けられる前に僕が取り上げると、彼は抗議の鳴き声を上げた。

「こいつの中身はお菓子じゃないんだよ」

フタを開けて、ぎっしりと詰まった金属プレートを見せる。ネコはその場で丸くなると、首を傾げた。

「ドッグタグって言ってな、本当は2枚あるんだが、持ち主が死ぬと片っぽをちぎって持ち帰る決まりになってる」

「うみゃ?」

「そうだ。人間の兵隊がこれだけ死んだ」

クッキー缶をライフルの脇に置く。

『最初』の僕が生まれたのは2042年。以来、120年分の軌跡だ。

覚えている中で最も古い記憶は、給食のタフィーをかじったときに乳歯が取れたこと。次に思い出せる範囲ではもうカタールのキャンプでカービン銃を分解整備していたり、幼いフレアと一緒にフロリダの遊園地を訪れたりしている。

超人兵士なんていない。

もしいたら僕はとっくにお役御免になって、今ごろはヒナギクいっぱいのお墓の下でうたた寝しているはずだ。

「みゅっ」

ネコがすっくと立ち上がって、ドアに向かった。どうやら夜食を探しに向かうらしい。

「あんまりジンジャーエールばっかり飲むなよ。腎臓悪くしてんだから」

僕がドアを開けると、ネコは何も言わずに出て行った。彼はいつだってクールに去ってしまう。

静かになった部屋でビターレモンをすすりながら、もう一度ライフルを磨いた。

ハンドガードを元の位置に戻そうとしたとき、ピンをクッキー缶の中に落としてしまった。ごた混ぜになったドッグタグをいくつもかき分けるうちに、ちょっと考え込んだ。

「……超人、か」

取り出したドッグタグをベッドに並べていく。

何十年もほったらかしにしていたせいで、汚れているやつがほとんどだった。

もし超人兵士がいたら、このうちの何枚が消えただろう。

1枚拭いてそっと置く。次のドッグタグも慎重に拭き取った。

今回は意識して丁寧にやることにした。今やらなければ当分は帰れそうにない。