あの男を殺したとき、僕はまだ大尉ではなかったし、呼び名だってオーガストではなくてエイス(8th)だった。
今になっても8番目という名前の意味は分からない。
受精卵クローンを分割したときのロットナンバーだったのかもしれないし、切り札のエイス(Ace)と掛けたのかもしれない。ただ、彼はそいつが最高のジョークみたいに『エイス』と僕の名前を呼んだ。
「エイス、これで終わりじゃないぞ」
ちゃんとあいつらは殺したか? 今日は30キロも走ったのか。とうとう部下が死んだのか――だが、これで終わりじゃないぞ。エイス、まだやるべきことは残っている。
僕が血まみれで執務室に飛び込んだときも、彼は顔色ひとつ変えずに同じことを言った。
「エイス、これで終わりじゃないぞ」
もう昔とは違って、彼の手はひどく節くれていて、白髪も半分以上は抜けていた。それでもあの笑顔だけは、相変わらず僕のベッドにコインを落としてはぶん殴ってきた大尉どののままだった。
「フレアか? それとも貴様の独断か?」
彼は僕に拳銃を向けて言った。
「トリガーを引くのは僕だ」
「そうだな。理由はどうであれ、貴様は『たかがその程度』でこれから人を殺す。それが重要だ」
彼はかっかと笑って、デスクに拳銃を置いた。
旧式のコルトが銀の地金に僕たちを映していた。分厚い硝煙が空を覆っても、ひどく月の明るい夜だった。
「……俺が間違ってたとは思わん」
そう言って、彼は笑みを消した。
「で、フレアはいくら難民を受け入れたんだ。市軍を蹴散らしたからには、人材は選んだのだろうな?」
どうせ知っているくせに、彼は確かめるように言ってくる。
突然、窓の向こうで大きな炎の花が咲いた。白んだ流星が地面に降り注ぎ、誰かの声が上がる。
「きみの部隊がキャンプを砲撃している。サーメイト弾だ。老人、子供、病人、前線に出なかった女ども……消火は間に合いそうもない。痛みを引き受ける気もなく、労働力にもなれないお荷物は全員死ぬだろう」
「ああ、プレゼントは喜んでいただけたようだな」
「どこまで本気だったんだ」
下の階からも銃声がした。
背後の扉ではフレアの私兵が銃を構えて、僕の合図を待っている。
この老人はいつでも命の勘定をしている。
その評価軸は決して倫理的ではないが、間違いなく一貫性のある男だった。僕がひとりで来たのも、個人的な敬意のつもりだった。
「どこまでとはな。本気というのは計量できるものではないぞ」
と彼は微笑んで、
「有無で言うなら今でも俺は本気だ。ただ、今回は後塵を拝する側を選んだというだけでな」
「『レガシィ・プロジェクト』は失敗したのか」
「知るか。連絡を寄越さなくなったビジネスパートナーなんぞ、信頼に足るとは思わん」
僕が右手を挙げようとしているのを見て、彼はため息をつき、「もう少し時間があることを期待していたのだが」と呟いた。そして僕が手を頭の高さまで上げたとき、義眼がこちらを見つめた。
「エイス」
彼は最期に言った。
「世の中、辻褄が合うように出来ているものだ。本当に終わったとき、分かるだろう」
次の瞬間、彼の頭は風船のように破裂した。
†
「サー、異常ありませんでした」
シャノンがエレベータホールに戻って来る。
ライフルを握る彼の指から、融けた氷が赤いしたたりになって落ちていく。そんな脂と血にまみれた手を僕が見つめていると、彼は初めて気が付いたようにスーツの腰で拭いた。
「冷媒のノルフルランがまだ循環していました。サーバーが生きています」
そうか、と言った。
エレベータシャフトの底には『オーガスト』の死体が折り重なっていた。
ハエにまみれて腐乱した身体は、それでも『彼』よりはキレイなものだった。
「ロックスをどう思う」
シャノンが手を拭くのをやめる。
彼の灰青色の瞳が僕を見つめ、一度だけ瞬きをした。
「『ニューヨーク顔』に会うのは初めてでしたが、想像よりは可愛いモノでしたね」
「きみも、純粋なユダヤじゃないだろう」
「ええ」
言われ慣れてますよ、と言うように彼は笑った。
「でも今どき、肌の白黒なんて近所のトヨタの色ぐらいの意味しかないでしょう?」
「宗教も既にそうしたバリエーションのひとつになっている」
「個性そのものもね」
彼はライフルを背負うと、壁にもたれて腕組みした。こういうヨーロッパ人らしい仕草をされると、本当にアフリカーナみたいだ。
「21世紀以来、言われるほど人間は神秘的でも特別でも無くなってしまった」
彼はふっと鼻を鳴らした。
「真に科学的なら一回性は否定されなければなりません。そのときの思想、経験、あるいは人生すらも、『条件がそろった』だけの再現可能なケースとして扱うから研究の対象になるんです」
「で、きみは科学的な人間なのか?」
「カキもチーズバーガーも食わない程度には非科学にぶら下がった個人ですよ、本職は」
まったく、この手の男が語る宗教は、いつも言い訳に便利だから困ってしまう。
ロックスも合流し、彼らはサーバールームに入っていった。
僕は外で警備しながら、ちょっと手をすり合わせたり、重たいブーツのかかとで床を叩いたりしていた。何故か心臓が痛いくらいに鳴っていて、何か物事が進むような予感があった。
最下層は虚無そのものだった。
リノリウムの床に、破れた壁紙。冷媒が回る低いうなりの他には、五感を刺激するものは何も無い。
果たして、正面からハーフブーツの音が聞こえてきた。
チャリチャリと鳴ってるのはライフルのストラップだろうか。
床を眺めていると生臭い血と鉄のにおいが突然、強くなった。間もなくすぐ隣の壁に誰かが寄りかかり、ふうっと灰色の煙を吐き出した。
嗅ぎ覚えのある匂いだった。キャメル。かつて8番目と呼ばれた男も好んでいた。
「もう喫わないのか?」
彼は嗄れた声で言った。
「いや。でも任務中だ」
「つまらない男になったな。それとも22世紀の兵隊ってやつは、老後の健康を考えながら務めるのか?」
「ケリをつけに来たか」
「いや」彼はタバコを踏み消して、「答え合わせだ。お互いの、な」
彼が重たいライフルを下ろす。
丁寧に磨かれたポリマーの外装が、暗闇に淡く輪郭を浮かび上がらせた。