「上の死体はきみがやったのか」
「僕たちが、だ」
彼は皮肉っぽく口角を上げた。
「何があった」
「絶望したのさ」
僕がメモ帳を取り出すと、「そう、それだ」と彼はうなずく。
「世界は有限大の情報で出来ている。少なくともここの連中は、そう考えていた」
彼はそう言って2本目のタバコをくわえた。カチカチとライターを鳴らすたびに火花が散る。
「そうした解釈内では、個人は社会というシステム全体における占有面積を示すだけの言葉になる。体格、知識、経験、年齢、性別、国籍。構成する属性が同じならば、同一人物の再生産は可能だ。理論上では」
「だが結果は発散した」
「その通りだ」
小さな灯がともり、彼の口の動きに合わせて揺れ動く。
「全世界の風を観測すれば嵐は予想できるかもしれないが、ニューヨークの竜巻のために北京でチョウの羽ばたきが起こす風の影響を計算できるやつはいない。完全に複製するには、人間の成長に関わる要素はあまりに細かく、遠く、多すぎた」
焼け崩れた刻み葉がはらはらと落ちていく。
彼は手のひらで灰を受けると、そっと握りつぶした。
「科学というものは、ときに物事を単純にしすぎる。世界の複雑さを、複雑なまま受け入れることが出来ずにデスクの上に並べられるスケールまで矮小化してしまう……」
「もともと人間の思考とはそういうものだろう」
「予想外のことがあっても『運が悪かった』とな。昔は神のせいにしていたが、20世紀に入ってからは、その役目は科学が受け継いだ。『おまえの見通しが甘かったのが原因だ』と」
彼は細く息を吐いた。ウミヘビのような煙が廊下の暗がりへと消えていく。
また彼はタバコを飲むと、歯の隙間から煙を漏らした。
「しかし本当の世界はデスクの外にあるのだと全人類が知ったら。髪に感じた風凪、浜を転がる砂粒、海底の好熱菌の代謝……人類の分解能を超えたもので、僕たちの人生が計算不可能な振る舞いをするのだとしたら……予測を立てることに何の意味がある?」
ずいぶん長い時間が過ぎた気がした。
やがてポーンのチェスピースのように短くなったタバコが吐き出される。彼は破れかけたブーツで踏み消して、困ったように笑った。
「まあ、ここの連中は耐えられなかった。研究成果が全世界に広がったあとで『端から意味がありませんでした』と発表することもできず、口封じに研究員は全員処分されたわけだ」
「それなら海の上でもバレ始めてる」
僕も壁にもたれた。シェルスーツの外殻が背に押し付けられる。
彼はごちゃごちゃとしたスーツを物珍しそうに眺めてきた。
「やはりか」
「一度起こったことは何度でも起こる。いかにも科学世紀らしいことだと思わないか」
「あの眼帯の子には見覚えがある。『レガシィ』産のコードを使ってるな?」
「最後の『試験管ベビー』世代だ。このあいだ従来型の自然分娩が解禁された」
「で、人間がセックスで増える時代に逆戻りか」
彼はさもどうでも良さそうに言った。ここで何年も生存者の排除をしてきたのだから、もはや関係ないことなのだろう。
ふと、僕の人生をどこまで知っているのだろうと思った。
「外でマッコウクジラが絶滅したのは知ってるか」
「へえ。イカが増えるな」
ああ、とうなずく。
「でも海は相変わらずだ。上のバイオスフィア3も菌類だけで生態系を保っている」
「人間抜きでな」
「人間の不在を欠損と思うのは僕らの主観だろう。結局のところ、自然というのはどう外圧を受けようが適応し続けて、最終的に辻褄が合うように出来てるのさ」
「そうだとしたら、とんだ片思いだ」
「さっきの話も、人間にはお構いなく世界は回るってことだろう?」
ライフルの安全装置を下ろして、ロウレディの位置に持ち直す。
「たぶん自分たちで思うよりも、人間は世界に対して小さいんじゃないか……?」
「僕はそこまで人類種が未熟だとは思っていない」
「成熟は関係ないさ。成人なんてものは子供に戻れなくなった人間ってだけだ」
「変わらないな。やっぱりきみは、僕らしい」
彼は苦笑して、ブーツの紐を結び直した。
来たときと同じように、去るときも彼は音を立てなかった。彼の立っていた場所には踏み潰されたタバコのフィルタと燃え殻だけが残っていて、リノリウムに茶色い焦げ跡を付けていた。
「ああ」
どんなに環境が隔てていても、彼もやはり僕だった。
壁の向こうでは軋む音が響いていた。
地熱発電用のタービンがそろそろ限界を迎えてくる時期だ。研究所全体の崩壊が始まるまで、いくばくもないだろう。
また何かが変わってしまう。
大半の人間には見えない変化だが、ここの研究記録が失われることは、間違いなく世界のあり方に影響する。この出来事が原因で誰かが死ぬかもしれないし、逆に生かされる人もいるかもしれない。
その結果も、きっと僕はすべて観測しきることはできない。
サーバールームからロックスたちが出てくる。彼らも大した収穫が無かったことは、表情からうかがえた。
僕のもとに来るなり、ロックスは不機嫌そうに鼻を動かした。
「喫煙なさいました?」
踏み消された吸い殻はふたつ。よっぽどストレスが溜まっていると思われたに違いない。
「そう……そろそろ任務が終わると思って、景気づけをしていた」
「これから潜るのに正気ですか?」
「上で花見でもしていれば煙も抜けるさ」
脇からシャノンが進んでディスケットを渡してくる。
「ここの成果です。ひと通りサルベージできました」
「1世紀分の研究がたったのフロッピーもどき1枚か」
「旧媒体で8ゼタバイトなら充分でしょう」
彼はもう一枚のコピーを耐圧ケースに収めた。ときとして科学の発展は残酷だ。
「……デッドメディアになってしまったな。知り合いのライターも愚痴ってたよ。『俺が2ヶ月かけた記事ですらやっと10キロバイトぽっちなんだ』って」
エレベータシャフトを上りきると、変わらずサクラの樹はカビとコケに覆われて光っていた。
キャンプを設置した事務室でボトルの水を飲み込み、じっと緑の地獄を眺める。
湿っていく喉を感じつつ、ここが海に呑まれるところを想像した。
恐らく、何も変わらない。いくつかの深海魚が肥えて、どこか遠くの海が赤潮に覆われて、それで終わりだ。1ヶ月も経てば元の状態に戻って、この場所も忘れられる。
「ぼんやりしてどうしたんですか」
ロックスがこちらを見ていた。
ニューヨークらしい規格化された顔が、眼帯とヘルメットでデコレーションされている。外付けなのに、目の前の彼女はとても個性的だ。
「この景色をどう思う?」
僕はボトルを投げて寄越した。思いっきり投げたつもりだったが、彼女は慣れた手つきでキャッチして、ひと口飲み込んだ。
「初めて見たときは怖いって思ったんですけど」
ロックスは黄緑色に照らされた大樹を見上げて、小さく口もとを緩めた。
「そうですね、今は奇麗だと思います」
「奇麗か」
虫が通るたびちらちらと明滅する樹は、僕には墓標のように見える。飾り付けられたピラミッドとか、パゴダのようなものだ。
「たしかに、そうかもしれないな」
行くぞ、とシャノンに告げる。彼はフェイスプレートを下ろして敬礼を返した。
「了解。記録終了します。ロックス?」
「時刻1844、記録終了。ウィルコ」
録画停止コマンドとともに、彼女のスーツから楽しげな電子音が鳴り響いた。