「正博……」
池村琴子は山本正博の腕を抱く手を少し緩めた。
この女性は、山本正博を知っているのか?
この「正博」という呼び方に、山本正博は眉をひそめた。
かつて、同じように彼をそう呼んでいた女性がいた。
「覚えていないの?私たちが演劇をしていた時、いつもこんなシーンを演じていたわ。私が倒れると、あなたが支えてくれたの」渡辺媛は潤んだ目で山本正博を見つめ、白い小さな顔は手のひらほどの大きさで、可愛らしさの中に少しの臆病さが透けていた。
池村琴子は黙ったまま、全身を強張らせた。
まさか、これも山本正博が引き起こした恋愛トラブルなのだろうか?
池村琴子は歯を食いしばりながら、山本正博を見た。「彼女は誰?」
彼女の声には冗談めかした調子と、歯ぎしりするような怒りが混ざっていた。
こんなに多くの恋愛トラブル、一つ一つ片付けていったら、いつになったら終わるのだろう?
「はじめまして……」渡辺媛は池村琴子に手を差し出した。「自己紹介させてください。私は山本正博の後輩で、学生時代によく一緒に演劇をしていました。きっと、あなたが噂の高橋仙さんですよね?」
噂の高橋仙……
どう聞いても耳障りな言い方だった。
池村琴子は山本正博を見つめたまま黙っていた。
山本正博は彼女が怒っているのを知っていて、不機嫌そうに彼女の鼻を軽くつついた後、渡辺媛に向かって言った。「何がしたいんだ?」
このような直接的な質問に、渡辺媛は言葉に詰まった。
「私……何もできないわ。ただあなたを見かけて、少し思い出を振り返りたかっただけ。同級生だったのに、他人になってしまうのは寂しいでしょう?」
彼女は茶目っ気たっぷりに目を瞬かせ、顔の紅潮が引いて、真面目な表情になった。
山本正博は冷たい表情のまま、目も上げずに言った。「思い出は十分だ。もう行っていい」
「間違いなければ、あの台本は君が書いたものだ。卒業証書が必要じゃなかったら、俺は付き合わなかった」
渡辺媛は学長の孫娘で、その立場を利用して、保護者を呼んだり卒業させないと脅したりしていた。
当時、兄が事故に遭って間もない頃で、彼は家族の負担になりたくなかったため、嫌々ながら付き合うしかなかった。
まさか渡辺媛がこんなにしつこく、大人になってもまだそんなことをしようとするとは。