魔背嶺は、多くの大教古派や聖門疆國の目から見れば寶物の地であり、神金が豊富で、霊薬丹草が生え、天獣が咆哮し、寿精が群れをなしている。
魔背嶺は伝説の葬地舊土には及ばないものの、それでもなお稀有な寶物の地であり、あまりにも豊かな場所である。
魔背嶺の具体的な由来については、誰も明確に語ることができない。魔背嶺はこの地に自然に存在していたという説もあれば、天外からやってきたという説もあり、さらには諸神の物であるという説まである。
三万年前、魔背嶺は洗顏古派のものであった。記憶の中では、魔背嶺は常に洗顏古派のものであったが、三万年前、洗顏古派が聖天教との戦いで惨敗し、本拠地は守り抜いたものの、最終的に魔背嶺を失うことになった。
当時、魔背嶺は洗顏古派の狩猟地であり、誰も手出しすることはできなかった。魔背嶺は神金寶鐵の産地で、人々の垂涎の的であったが、それでも洗顏古派に手を出す者はいなかった。
三万年前、洗顏古派が惨敗して本拠地に退くまで、魔背嶺は無主の地となった。当時、聖天教は洗顏古派を打ち負かしたものの、大中域はおろか天下各域の大教疆國が魔背嶺を虎視眈々と狙っていたため、聖天教は魔背嶺を独占することができず、天下共有を宣言することとなった。
魔背嶺は百年に一度開かれ、最近、大教疆國の有力者たちの推算によると、今回の開門は長くて一年以内、短くて三ヶ月以内とされている。
そのため、経験豊富な大教疆國は次々と弟子を派遣し、魔背嶺へ向かわせ、伝説の寶物を手に入れる機会を得ようとしている。
主催者である寶聖上國も早くから弟子を派遣し、魔背嶺の入口に駐在させ、中域八方からやってくる大教疆國の弟子を迎えるとともに、魔背嶺に入る資格のある門派や修士を選別している。
魔背嶺は天下共有と謳われているものの、実際に入場資格を得られる門派は、大教疆國か名高い一方の雄主に限られており、その他の小門小派や一般の修士は入場資格を望むべくもない。
実際、魔背嶺は洗顏古派からそれほど遠くない場所にあり、せいぜい十数万里の道のりである。洗顏古派のかつての祖地宗土を巻貝の形に例えるなら、現在の洗顏古派は巻貝の尾部に位置し、魔背嶺は巻貝の口に位置している。洗顏古派から魔背嶺へ行くには、必ず洗顏古派の旧跡を通らなければならない。