065.私は気にしない

そういうわけで、彼は彼女の側にこれほど長い年月いながらも、その一歩を踏み出す勇気が持てなかった。

他人が言うように、大切に思えば思うほど、臆病になってしまうものなのだろう。

渡辺拓馬は心の中で苦笑いを浮かべた。その時、前方の信号が青に変わり、彼は再び車を発進させた。

「でも、結衣、正直に言うけど、藤堂澄人と離婚した後は、もう結婚する気はないの?」

渡辺拓馬はいつもの調子に戻り、何気なく尋ねた。

九条結衣が気にも留めずに微笑むのを見て、その笑顔があまりにも淡々としていた。

まだ二十六歳という若さなのに、その笑顔の中に人生の哀愁が垣間見えた。

藤堂澄人のもとで一体何を経験したのか、こんなに誇り高く輝いていた少女の目の奥に、哀愁という言葉が浮かぶようになるとは。

「もういいの」

渡辺拓馬は一瞬驚いた。九条結衣の返事があまりにもはっきりしていたからだ。

彼女は暗い眼差しで前方を見つめながら、渡辺拓馬に話しかけているようで、独り言のようでもあった。

「ずっと私は...藤堂澄人との関係は足し算だと思っていた。相手がゼロでも、私が少しずつ頑張れば、もっと頑張れば、この感情は少しずつ増えていくはずだと。でも今やっと分かった。恋愛って掛け算なんだって。相手がゼロなら、私がどんなに頑張っても、この感情は永遠にゼロのまま」

ここまで言って、彼女は自嘲的に笑い、目の奥に隠された悲しみを押し殺した——

「藤堂澄人との結婚生活で、彼を愛するために全ての力と勇気を使い果たしてしまった。もう他の人を愛する余力なんてないわ。他の人に迷惑をかけたくないし、その人にも公平じゃない」

「僕は気にしない!」

渡辺拓馬のその言葉は、思わず口をついて出たものだった。しかし九条結衣の冷ややかな視線を受けると、慌てて言葉を飲み込んだ。

「つまり、男性の立場から言えば、もし僕が君を愛しているなら、公平とか不公平とか気にしないよ。どうして自分にチャンスをあげないの?」

渡辺拓馬は心の中で人殺しをしたいほど焦っていたが、それでも我慢して九条結衣に説明した。

九条結衣は相変わらず無関心そうな様子で、渡辺拓馬の言葉も気に留めず、ただ淡々と「いいの」と答えた。