鈴木知得留(すずき しえる)が息を引き取ったのは、早春の息吹が微かに感じられる、日本の3月だった。
記憶は朧げで、一晩中、ただひたすらに蒸し暑く、喉の渇きは焦がれるようだった。エアコンの冷風も、冷たい水も、その渇きを癒すことはない。まるで無数の蟻が心臓を這いずり、掻きむしるような、耐え難い焦燥感に苛まれていた。
翌朝、知得留は生涯で最も凄惨な光景を目の当たりにする。純白の大きなベッドの上で、絡み合う女と男。
その女は、自分自身だった。
そして男は……愛した人ではなかった。
天が崩れ落ちるかのようだった。悲鳴を上げる間もなく、不意に部屋のドアが蹴破られる。怒濤のように押し寄せる記者たち、明滅するフラッシュの閃光が、ベッドの上の青ざめた知得留を無慈悲に照らし出す。
その刹那、東京中の記者がホテルのこの部屋に集結したのかと錯覚するほどだった。人、人、人の波……
「鈴木さん、父上のご遺骨がまだ冷たいうちに、このような破廉恥な真似をなさるとは、恥を知らないのですか!」
「鈴木さん、田村取締役はあなたに純愛を捧げていたというのに、裏で男と密会するとは、ご自身を嫌悪なさらないのですか!」
「鈴木さん、かつて冬木若旦那との婚約を衆人環視の中で破棄しておきながら、今度は彼の不倫相手になるなんて、本当に東京の笑い草ですね……」
耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が、知得留の神経を逆撫でしていく。知得留はただ、シーツを固く握り締め、目の前の光景を呆然と見つめるばかりだった。
ふと、戦慄が走る。
人混みの中に、細い影がある。知得留は田村厚(たむら あつ)を見た。彼が足早に立ち去るのを、その目に焼き付けた。
違う、こんなのは嘘だ。
知得留はシーツを身体に巻き付け、狂ったように記者たちを押し退け、その背中を追った。よろめきながら、ホテルの長い廊下を駆けていく。
「厚、信じて、違うの……」知得留の視界はぼやけていた。それでも、必死に前を行く人影を追う。
辿り着いたのは、人気のないホテルの屋上だった。
3月月の東京は、柳絮が風に舞い、春の柔らかな陽光が降り注いでいる。
けれど、知得留の身体は芯から凍りついていた。
知得留は屋上に佇む田村厚を見た。震える身体を引き摺るように、一歩、また一歩と、その傍らへと歩み寄る。
「厚……」声は酷く掠れていた。
許しを請う資格などない。それでも、謝りたかった……
「心が張り裂けそうだろう? 息も詰まるだろう?」田村厚が振り返る。
知得留は彼を見据えた。
その目に宿るのは、嘲りの色。
嘲笑。
悲しみはない。ただ、冷酷な嘲弄だけがそこにあった。
「実は、これは全て私の筋書き通りだったのだ」田村厚は、一語一句を噛み締めるように言った。「君と冬木空(ふゆき そら)……私が仕組んだのだよ」
知得留は、ただただ、彼を凝視していた……
「信じられない、か? 全て悪い夢であってほしい、とでも?」田村厚の顔に、サディスティックな笑みが浮かぶ。「鈴木知得留、遊びはもう終わりだ!」
「厚……」知得留は呟いた。もう彼の名前を呼ぶことすら叶わないと思っていたのに。
「君と長年連れ添ってきたが、私が何を欲していたと思う? 愛だとでも? まさか。私が欲しかったのは、金融界の頂点に立つ取締役、鈴木山(すずき やま)の娘という、その肩書きだけだ。君を踏み台にして、私は望む地位へと這い上がってきたのだ」田村厚は冷酷に言い放つ。「ついでに教えてやろう。君の弟も、君の父親も、この私が手にかけた」
「田村厚!」
「まだキレるには早いぞ、これからが本番だ」田村厚は勝利者の笑みを浮かべ、傲然と言い放った。「君を可愛がっていた継母、義理の妹は本心からだったと? 甘いな! 君の継母が君の父親と結婚したのは、私にとって成功への近道となるからだ。彼女が長年にわたり、君の父親の食事に毒を盛り続け、死に至らしめた。ああ、そうだ、君の継母は私の実の母親なのだよ」
「君の弟は、私がアクセルを強く踏み込んで、バラバラになったな……」
「いい加減にしなさい!」知得留は絶叫した。「天罰が下るのが怖くないの?!」
「私は己の力のみを信じる」田村厚は言い切った。その刹那、彼の眼光が鋭く光り、目の前の知得留を掴み上げる。「そして、君もまた、ここで終わりだ!」
「何のつもり?!」知得留は身構えた。背後には、奈落が口を開けている。
「もちろん、殺す」田村厚は言った。その声は、血も涙もないほどに冷え切っていた。「用済みの君に、生きている価値などないだろう?!」
「田村厚、人を殺せば、その報いを受けることになるのよ!」知得留は怒号を上げた。
「ふっ」田村厚は嘲笑した。「鈴木知得留、不倫の現場を押さえられ、愛人の前で恥辱のあまり自ら命を絶つ! どうだ、完璧な理由だろう?」
信じられなかった。目の前にいる血も涙もない悪魔が、かつて骨の髄まで愛し抜いた男、かつて自分と添い遂げると誓った男だなんて。知得留は、彼が自分をホテルの屋上の手すりの外へと突き落とすのを、ただ、呆然と見ていることしかできなかった……無慈悲に!
残念ながら、知得留は田村厚を道連れにすることは叶わなかった。
知得留は深く恨んだ。
骨の髄まで、怨嗟は刻まれた。
日本国金融界の頂点に立つ外交官、鈴木山の娘、鈴木知得留は、万人の寵愛を一身に受けながら、家族全員を死に追いやり、自身もまた、無念の死を遂げた。許せない!
もし来世があるのなら、この世の理不尽に抗い、必ずや、奴らを地獄の業火に焼き尽くしてやる!