生まれ変わりの日

「ドン!」

鈍い衝撃音が耳を劈いたかと思えば、意外にも痛みはさほどでもなく……。

一瞬、目の前が真っ暗になったかと思うと、また急に明るくなった。耳元では車のクラクションや人々のざわめきが、やかましく響いている。

32階から落ちたのに、死んでいない…?!

そんなはずはない。

田村厚がが全てを打ち明けたからには、自分に生き延びる道など残されているはずがないのだ。

揺れる頭を押さえながら、目を見開いて周囲を見渡す。見慣れた、それでいてどこか見知らぬ街並みは、果たして私の錯覚なのだろうか?

「お姉さん、大丈夫?」聞き覚えのある声が、すぐそばから聞こえてきた。

鈴木知得留は、はっと顔を上げる。そこにいたのは、継妹の根岸佐伯(ねぎし さえき)だった。清楚で可愛らしく、どこまでも可憐で愛らしい。その顔には、心からの心配そうな表情が浮かんでいる。

一体…何が起きているの?!

鈴木知得留は呆然と根岸佐伯を見つめたまま、思考が停止してしまったかのように動けない。

「お嬢様、すぐに車を降りて様子を見てまいります」また別の声が、知得留の耳に飛び込んできた。

信じられない思いで、小型車の運転席に座る加藤を見た。加藤は、確か3年前に亡くなったはずなのに。

加藤の視線を追うと、もう一台の車から降りてきた女性の姿が見えた。加藤は、少し悩んでいる様子で何かを言い争っている。どうやら追突事故が起きたようだ。そして、この見覚えのある光景に、知得留ははっとする。これは、紛れもなく6年前の出来事だ。

6年前……

知得留は、高鳴る鼓動を抑えようと努めながら、佐伯を振り返った。「今は、何年?」

「え?」根岸佐伯は、怪訝そうな顔をする。

「日本は今、何年なの?」

「2013年よ、お姉さん。どうしたの?さっきの衝撃で、頭を打ったの?」佐伯の心配そうな声は、どこまでも優しく、その瞳には一点の曇りもない。

あの時、私はこうして、まんまと騙されたのだった……!

「じゃあ、あなたは今年21歳で、私は22歳?」知得留は、もう一度確かめずにはいられなかった。小説の中でしか起こりえないような出来事が、現実に自分の身に降りかかっているなんて、信じられなかった。

「そうよ」佐伯は、素直に頷き、そして、どこか幸福そうな口調でこう続けた。「明日は、私の誕生日なの。だから今日、お姉さんは私に、素敵な誕生日プレゼントをくれたのよ」

プレゼント?!

知得留は、強く唇を噛み締めた。これは夢ではない。その事実に、皮肉めいた思いが込み上げてくる。

どうやら、天はまだ私を見放してはいなかったらしい。本当に生まれ変わったのだ。6年前に。

6年前なら、まだ何も起きていない。

弟も、父も、まだ生きている。私の家は、あの毒蛇のような連中に、まだ乗っ取られてはいない!

全てがやり直せるのなら、今度こそ、10倍返してやるわ!

静かに心を落ち着かせると、知得留は車のドアを開けて外に出た。

加藤は、知得留が降りてきたのを見て、慌てて恭しく言った。「お嬢様」

知得留は、軽く頷き、目の前の女性を見つめた。

女性もまた、知得留を見つめ返し、はっきりとした口調で言った。「追突したのは私です。警察を呼んでいただいても、修理工場に直接運んでいただいても構いません。私が責任を持って修理いたします」

「斎藤咲子(さいとう さきこ)さん」知得留は、相手の名前を呼んだ。

相手は、少し眉をひそめ、答えた。「何の用ですか、鈴木知得留さん」

東京でも有数の名門貴族である鈴木家は、商業と政治の世界で、日本の経済発展を支えてきた。斎藤家は、商業を営み、東京の3大財閥の1つに数えられる。

知得留は鈴木家の長女、咲子は斎藤家の長女。二人に直接の交流はなかったが、東京での地位を考えれば、互いを知っていても不思議ではない。前世の知得留は、社交には無関心だった。妹と弟、そして自分を愛してくれる男がいれば、それで十分だと思っていた。佐伯は、知得留が新しい友人と付き合うと嫉妬するし、田村厚は上流社会との接触を全く望んでいなかったため、知得留も自然と上流社会の人々との交流を避けるようになっていた。

今思えば、本当に馬鹿だった。あんな連中の甘言に、やすやすと乗せられてしまうなんて。結局、知得留自身は一人ぼっちにされて、彼らに食い物にされるのを、ただ待つだけだったのだ!

「これは事故です。誰も望んで起きたことではありません。それに、お互いに責任があります」知得留は微笑んだ。「警察を呼ぶ必要も、賠償もいりません」

斎藤咲子は、少し意外そうな顔をした。普段の知得留は、他人との関わりをほとんど持たない。しかし、その時の彼女は、それ以上何も言わず、頷いた。「そうですか。では、私はこれで失礼します」

「ええ」知得留は頷いた。

咲子は、踵を返して自分の車に戻っていった。

知得留は、彼女の後ろ姿を見つめながら、考えを巡らせた。咲子とは親しくないが、6年長く生きた経験から、彼女が並外れた女性であることは知っている。だからこそ、彼女と親交を結ぶ必要があるのだ。

知得留は、加藤に車の修理について簡単に指示を出し、一緒に車に戻った。

再び走り出した車の中で、知得留は窓の外を流れる東京の景色を眺めながら、物思いに耽っていた。これまでの出来事は、あまりにも現実離れしていて、信じられないほどだ。しかし、紛れもなく現実に起こっていることなのだ。

「お姉さん」不意に、隣から佐伯の甘い声が聞こえた。

知得留は、返事をする気になれなかった。しかし、今はまだ、自分の正体を明かす時ではない。

「……うん」気のない返事をした。

「明日の私の誕生日パーティー、どのドレスを着ようかな?後で、一緒に選んでね。楽しみだわ」佐伯は、無邪気な少女のように、期待に胸を膨らませている。

知得留は、心の中で冷笑を浮かべた。

記憶が正しければ、今のどころは、ちょうど知得留が一人で冬木家に婚約破棄を申し入れに行き、その後、佐伯の誕生日プレゼントを選びに行く途中だった。そして、先ほど佐伯が口にした「プレゼント」とは、三大財閥の筆頭である冬木グループの御曹司、冬木空との婚約を破棄したことだった。佐伯と空をくっつけるために。

実際のところ。

知得留と空は、生まれたばかりの頃に婚約を結んだが、成長する過程でほとんど接点がなかった。空は幼い頃から海外で学んでおり、二人が顔を合わせる機会はほとんどなかったため、知得留は空に対して何の思いも抱いていなかった。だか、佐伯は空に一目惚れし、東京で空が役立たずという噂が流れていることさえ気にせず、彼と結婚することを熱望していた!

「お姉さん。どうしたの?なんだか、上の空みたいだけど」知得留から返事がなかったため、佐伯は不満そうに声をかけた。

知得留は、唇をぎゅっと噛み締めた。今にも佐伯を平手打ちしてしまいそうな衝動を、必死に抑え込んでいる。「さっきの事故で、少し動揺したのかもしれない。気分が優れないの。悪いけど、あなたは自分でドレスを選んで。私は、家に帰って休むわ」

「お姉さんは、ドレスの試着に行かないの?」

「ええ、私はいいわ」知得留は、微笑んだ。「明日の主役はあなたよ。一番綺麗に見えるドレスを選んでね」

佐伯は、嬉しそうに言った。「それでも、お姉さんのために、素敵なドレスを選んであげるから」

知得留は頷いた。

演技力では、知得留は佐伯には敵わない。

「じゃあ、お姉さんは、どこで降りる?」佐伯が尋ねた。

知得留は、佐伯には答えず、運転手の加藤に声をかけた。「加藤さん、すみませんが、車を停めてください」

車は、道端に停まった。

知得留は言った。「佐伯、あなたはここで降りて。ここなら、タクシーも拾いやすいでしょう」

佐伯は、信じられないといった表情で知得留を見つめた。

知得留は、続けた。「さっきの事故で、車に少し傷がついたかもしれないから、修理工場に持って行かないといけないの」

佐伯は、唇を噛み締め、不満を押し殺している。

知得留は、平然としていた。

佐伯は、しばらくしてから、ようやく車のドアを開けて外に出た。その際、いつものように甘い声で別れを告げることもなく、そのまま立ち去った。

知得留は、気にも留めなかった。加藤に声をかける。「行きましょう」

加藤もまた、普段のお嬢様なら佐伯お嬢様を甘やかすはずなのに、と訝しげだったが、何も言わずに車を発進させた。

知得留は、後ろ姿で怒りを露わにしている佐伯を見つめながら、口元に冷笑を浮かべた。これは、ほんの始まりに過ぎないのだから。