112 絶賛の嵐

村人たちはこの曲の演奏者の技術が良いか悪いかを聞き分けることはできなかったが、配信を見ていた多くのネットユーザーたちには分かっていた。

ネットユーザーたちは聴き終わった後、客観的で公正な評価を下した。

【矢崎美緒の技術はまあまあ良いけど、まだ使いこなせていないね。】

【民族楽器の演奏者として、私は矢崎美緒が戦場の移り変わりや、戦いの厳しい雰囲気を全く表現できていないと思う。全体的に柔らかすぎる。】

【矢崎美緒がもっと柔らかい曲を選んでいたら、もっと良い効果が出たかもしれない。】

みんなその理由が何なのかを心の中で分かっていた。

もし矢崎粟の二胡バージョンという傑作がなければ、矢崎美緒の今の演奏も多くの好評を得られたかもしれない。しかし比較があるため、素人でも彼女が矢崎粟に及ばないと感じるだろう。

村人たちは相変わらず拍手をしたが、誰もが分かっていた。この拍手は矢崎美緒が以前踊った時ほど熱烈ではなかった。

矢崎美緒は心の中で悔しさを感じ、さらに後悔していた。もし分かっていれば、矢崎粟を貶めようとして以前の大衆的な曲を変更したりしなかっただろう。

矢崎美緒は後悔はしているものの、矢崎粟のグループのような子供じみた出し物が、彼女たちグループ四人の五つの素晴らしい演目に勝てるとは思っていなかった。

彼女の心の中では、矢崎粟が目立たない限り、自分は常に矢崎粟より上で、矢崎粟は永遠に下風に立つのだと思っていた。

最後の出し物は矢崎粟たちのグループが演じる影絵芝居だった。

演目が始まる前に、矢崎粟は舞台に上がってこの影絵芝居の出演者を紹介した。四人のゲストの他に、村の口技伝承者、民族楽団、そして村の子供たちも参加していた。

村の人々が出演すると聞いて、村人たちの気持ちは明らかに高まり、みんな演目の開始を心待ちにし始めた。

影絵芝居は通常夜に上演されるものだが、番組スタッフは今夜村を離れなければならないため、昼間に上演することになった。

しかし昼間でも日光を利用して上演することができ、このような昼間の影絵芝居は「日影芝居」とも呼ばれている。

演目が始まると、矢崎粟たちが早めに用意していた巨大な白い幕が張られ、矢崎粟たちと村の子供たちが幕の後ろに立って役柄の道具を持ち、日光がこれらの半透明の切り紙を通して影を白い幕に大きく投影した。