「加奈、今すぐ行かなきゃいいけない用事ができたんだ。結婚式は…延期にしないか」
林翔平(はやし しょうへい)が電話を終えてそう切り出しすと、坂本加奈(さかもと かな)は呆然としてしまった。
背後には桜花ホテルの最大の宴会場がある。二人はあと10分で手を取り合って入場し、結婚式を挙げるはずだった。しかし今、林翔平は延期しようと言い出したのだ。
瞬時に、坂本加奈は我に返り、顔から喜びの表情が消え、青ざめた。しかし、落ち着きを装って口を開いた。「翔平さん、もうすぐ式が始まるんだよ。他のことは、式が終わってからでいいじゃない」
林翔平は彼女の背後にある宴会場を一瞥し、黒い瞳で彼女を見つめながら焦りを見せた。「加奈、本当に重要な用事なんだ。式は二、三日後にしたって同じだよ」
言い終わると、彼は急いで立ち去ろうとした。
同じ?
同じなわけないでしょう!
坂本加奈は本能的に彼の袖を掴んで、行かせまいとした。
このまま彼が行ってしまったら、坂本家の面目は丸つぶれだ。
私はどうすればいいの?
「私たちの結婚式より大事な用事って何なの?」彼女は澄んだ輝く瞳で彼を見つめた。「結婚式をキャンセルするなら、理由くらい教えてよ!」
林翔平は困った顔になり、数秒間黙り込んだ後、薄い唇から絞り出すように言った。「白川春子が事故に遭ったんだ」
白川春子!!!
その名前を聞いた瞬間、加奈の心に刺すような寒気が走り、全身に広がっていった。
彼の袖を掴んでいた手からも力が抜けた。
白川春子、それは坂本加奈にとって決して初めて聞く名前ではなかった。すでに田舎にいた頃から聞いたことがあった。
翔平は大学時代に彼女がいて、その彼女と一緒に海外へ行くために、林家の両親に婚約解消を懇願し、そのために入院までしたという。
その後どういうわけか、この激しい恋愛は白川春子の出国と、林翔平の墨都での残留という形で終わりを迎えた。
加奈はこの名前が翔平の過去の一部として永遠に存在するだけだと思っていて、まさか自分の結婚式の当日にその名前を聞くことになるとは思わなかった。
さらに、この元カノのために坂本・林両家の婚約を破棄し、結婚式当日に自分を置き去りにするとは思ってもいなかった。
翔平は加奈が黙っているのを見て、加奈の手を振り払い、エレベーターの方向へ向かって歩き出した。その足取りには一切の迷いもなかった。
加奈の目は瞬く間に赤くなり、喉に何かが詰まったような苦しさを感じた。
翔平はまだ春子のことが忘れられなかったのだ。それなのになんで自分との結婚を承諾したのか?
ただ両家の婚約を果たすためだけで、彼の心には自分への好意は少しもなかったの?
ずっと自分の一方的な思い込みだったの?
「翔平さん…」彼がエレベーターに乗り込もうとした時、坂本加奈が突然口を開いた。
伏せていた目を上げて彼を見た時には、ウサギの目ようにもう目が赤くなっており、必死に泣出しそうになるのを抑えていた。そして、丁寧に塗られた口紅の唇を開いた。「もうすぐ式が始まるから、式が終わってからでも…」
「加奈、今日の結婚式は中止だ」林翔平は苛立たしげに言葉を遮った。「春子が事故に遭った。彼女は今外国で一人きりなんだ。俺が行かなきゃいけない」
漆黒の瞳で彼女を見つめながら、まるでこう言っているかのようだった。「君は今日結婚式ができないだけだけど、春子は事故に遭ったんだぞ!」
加奈の心臓は激しく動悸し、残りの言葉が喉に詰まって出てこなくなった。
白川春子に会いに行きたがる翔平の様子を見ると、目の中の最後の光も消えていき、長いまつげが止めどなく震えた。
自分がここまで妥協し、ご機嫌をとっても、彼からは慈しみや愛情のかけらも得られないのだ。
数秒の沈黙の後、彼がエレベーターに乗ろうとした時、澄んだ声が響いた。「私たち、別れよっか」
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