記憶の一部を失うのも良いかもしれない。以前、林翔平のことをどれほど好きだったのかを忘れれば、彼に捨てられても心が引き裂かれるほど辛くならないだろう。
坂本加奈は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。日記帳を机の引き出しに入れ、鍵をかけた。
「コホン……」ドアの方から軽い咳払いが聞こえた。
坂本加奈が振り返ると、いつの間にかドア枠に寄りかかっていた坂本真理子がいた。起きたばかりらしく、まだ眠そうな様子で、髪は整えられておらず乱れていたが格好良さは失われていなかった。魅力的な目には揶揄の色が浮かんでいた。「日記帳を鍵をかけて仕舞えば、林翔平というクズ男のことを忘れられると思ってるの?」
「もう忘れたわ」坂本加奈は唇を引き締め、明るい目で意味深な返事をした。
坂本真理子は何かを思い出したかのように、一瞬だけ目の色が変わり、唇を歪めた。「お腹空いた、何か食べに行くよ」
「今夜、黒川さんが夕食に来るから、うっかり話さないでね」坂本加奈は心配そうに注意した。
坂本真理子は踏み出した長い足を急に引っ込め、振り返って彼女を見た。「黒川のじいさんが来るの?」
「ちゃんと名前があるでしょう。それに、自分の親友でボスをそんな風に呼ぶのはどうかと思うわ」坂本加奈は口を尖らせた。
「あいつがお前の兄貴を犬のように使い回してる時は、何も言わなかったくせに?」坂本真理子は彼女を横目で見た。「まさか、あいつのことが好きになったんじゃないだろうな?随分と他人贔屓だな……」
「まさか!」坂本加奈は思わず答えたが、反応が大きすぎて逆に何か隠しているように見えてしまった。
坂本真理子は黙ったまま、腕を組んで意味ありげな笑みを浮かべていた。
坂本加奈は何となく後ろめたい気持ちになり、「本当にないわ。林翔平との婚約が解消されたばかりよ。そんなこと考える余裕なんてないわ」と言った。
そして更に小声で付け加えた。「まるで私が次から次へと男を渡り歩く女みたいな言い方ね……」
「ただの冗談だよ。なんでそんなに慌てるの?」坂本真理子は探るような目で彼女を見つめた。
「私のどこが慌ててるように見えるの?」坂本加奈は彼の目をまっすぐ見返し、断固として言った。「私は彼のことが好きじゃないの。違う、違う、絶対に違う」