第376話:離婚なんてない

黒川浩二は答えず、コップを持って水を飲み、何かを隠しているようだった。

坂本加奈は好奇心から書類入れを開けたが、口元の笑みが突然凍りつき、黒白はっきりした瞳に驚きが浮かんだ。

「あなた、これはどういう意味?」彼女は書類入れを置き、下の物は見たくもなかった。

一番上に置かれていたのは、彼女のパスポートと航空券だったから。

「パリ国立美術学校に行くのは君の夢だった」黒川浩二は水を置き、低い声で、笑みを浮かべながら気軽な様子を装って言った。

「でも私、もう行かないって言ったでしょう」坂本加奈の柔らかな声は非常に断固としていた。

黒川浩二は深いため息をつき、何も言わずに藤沢蒼汰に目配せをして、彼に説明させた。

藤沢蒼汰はこの仕事が骨が折れて得るものが少ないと感じたが、断る方法もなく、仕方なく引き受けた。

「奥様、これは黒川社長がパリ国立美術学校への入学に関する全ての資料です。向こうの不動産も既に購入済みで、寮に入る必要はなく、徒歩10分で学校に着けます。最初は家政婦を一人手配して生活のお世話をさせ、後は環境と生活に慣れてきたら、家政婦の継続雇用は奥様のご判断にお任せします。」

坂本加奈は子供のように意地を張り、書類入れを彼の前に押しやった。「行かないわ。私が行きたかった時にはダメだって言って、今は行きたくないのに無理やり行かせようとして、本当に変よ!」

藤沢蒼汰は困ったような目で黒川浩二を見て、肩をすくめた。

自分が言うべきことは全て言った、奥様が行きたくないのは自分の責任ではない。

黒川浩二は手を上げて、彼に先に出るよう指示した。

藤沢蒼汰は軽く頭を下げて、先に退出した。

黒川浩二は書類入れを彼女の前に置き直し、薄い唇を開いて「これは君の夢だよ。夢を追いかけさせようとしているのに、なぜ怒るんだ?」

「今は夢を追いかけたくない、ただあなたの側にいたいの」坂本加奈は顔を上げて彼を見つめ、輝く瞳には彼への喜びが満ちていた。

黒川浩二の喉仏が動き、長い睫毛が下がって瞳の奥に一瞬よぎった深い思いを隠し、深く息を吸って低い声で言った。「加奈、僕は君が思うほど良い人間じゃない。君の夢を犠牲にしてまで側にいる価値もない。」

坂本加奈は眉をひそめた。「価値があるかどうかは私が決めることよ。あなたが決めることじゃない。」