坂本加奈は病室の前に立ち、小さなガラス窓越しに西村雄一郎の姿を見つめていた。
「浩二、彼にご飯を届けてきたわ。もう切るね。」
「うん。」黒川浩二は低い声で言った。「彼の世話はいいけど、自分を疲れさせないでね。」
「分かってるわ。」坂本加奈は素直に答え、少し間を置いて甘えた声で付け加えた。「今日も愛してるわ。」
「僕もだよ。」
黒川浩二は電話を切り、目の前のパソコンの画面を見上げた。画面にはまだメールが表示されていた。
携帯を置き、両手を組み合わせて強く握りしめると、関節が徐々に青白くなっていった。
「野村。」
書斎の入り口で待機していた野村渉は呼ばれるとすぐにドアを開けた。「黒川社長、何かご用でしょうか?」
「パリに行って荷物をまとめてくれ。彼女には知らせるな。」
野村渉は一瞬戸惑った。これは左遷なのか、出張なのか?
黒川浩二は彼の考えを見透かしたように、一晩眠れなかった沙哑な声で言った。「出張だ。給料は倍にする。」
「はい。」野村渉は今度は素早く答え、すぐに荷物をまとめに戻ろうとした。
書斎のドアまで来たとき、黒川浩二が突然彼を呼び止めた。「待て。」
野村渉が振り返ると、男の凛とした顔に躊躇と葛藤の色が浮かんでいるのが見えた。しばらくして低い声で言った。「やめておけ。」
野村渉の目に明らかな失望の色が浮かび、うなずいて出て行った。
浜松市か、倍の給料が飛んでしまった。
黒川浩二の視線は画面に戻った。彼女は毎日メールを書き、ビデオ通話をし、些細なことまで自分に話し、喜怒哀楽を共有し、精一杯自分に安心感を与えようとしていた。
こっそり人を派遣して彼女を見張るなんて、彼女の苦心を裏切ることになる。
長い指で眉間を押さえ、胸に溢れる思いは洪水のようだった。毎日これだけのもので渇きを癒すしかなかった。
***
坂本加奈は二人分の昼食を買い、病室で西村雄一郎と一緒に食べ終えた。午後は授業がないので、もう少し病室で彼に付き添っていた。
付き添うといっても、西村雄一郎がスマートフォンを触っている間、彼女は授業の録音を聞いていただけだった。
病室で夕食まで過ごし、医師は西村雄一郎の体調に問題がないと言い、明日には退院できる、足の怪我は家で十分に休養すれば良いとのことだった。