第573章:あの子

「野村、車に乗って」力強い声が響いた。

野村は躊躇することなく彼女の命令に従った。「はい、お嬢様」

彼が車に乗り込むと、森口花は車の中から覗く半分の顔を見下ろした。表情は冷淡で、いつもの活発さと明るさは微塵もなかった。

「詩織、君は村上コーポレーションの副社長だ」彼は無意味な一言を口にした。

黒川詩織は少し顔を横に向け、目を上げて冷たく疎遠な声で言った。「森口社長、業務の件は秘書に予約を取ってください。プライベートな件は…」

一瞬言葉を切り、薄紅の唇を開いて、さらに冷たい声で続けた。「お断りします」

そう言って、窓を上げようとした。

森口花は躊躇なく手を伸ばして彼女の窓を上げる動きを阻止した。「詩織、あの子のことだけど…」

「子供」という言葉を聞いた途端、黒川詩織の眼差しはさらに冷たくなり、彼を見上げた時の視線は矢のように鋭く、まるで彼を千本の矢で貫きたいかのようだった。

「森口花、手を引っ込めないと、その手がなくなりますよ」

言葉が終わらないうちに、彼女は目も瞬きせずに窓を上げた。

森口花は結局手を引っ込め、車が夜の闇に消えていくのをただ見つめるしかなかった。

……

車が建物の下に停まった。黒川詩織は車の中で動かず、顔は暗闇に浸され、まるで瞑想しているかのようだった。

野村は運転席で動かず、しばらく待ってから、ゆっくりと口を開いた。「お嬢様…」

黒川詩織は我に返り、低い声で言った。「タバコを一本もらえますか?」

野村は無言でタバコとライターを渡した。

彼女は受け取ると慣れた手つきでタバコに火をつけ、細い指でタバコを挟み、唇の間から白い煙がゆっくりと立ち上り、瞳の奥の痛みを徐々にぼやかしていった。

一年が経った。あの子のことは彼女にとって言葉にできない痛みだった。

一本のタバコを吸い終えると、黒川詩織はタバコとライターを返し、「ありがとう」と言って、何事もなかったかのように背筋を伸ばして車を降りた。

野村は車の中で動かず、冷たい瞳でその痩せた背中を見送る時、かすかな心痛が閃いた。

***

土曜日、黒川詩織は早朝に起床し、朝食を済ませてからクローゼットから黒いロングドレスを選んで着替え、月見荘へ向かった。

車が月見荘の前に停まると、黒川詩織は車を降りて見慣れた景色を見上げ、まるで前世のような感覚を覚えた。