黒川詩織は足を止め、振り向いて彼を見つめた。
澄んだ瞳と目が合うと、口に出かかった言葉を飲み込み、「寒くなってきたから、暖かい服を着て、体に気をつけてね」と微笑んで言った。
黒川詩織は彼が本当に言いたかったことは別にあると感じたが、それ以上は聞かず、礼儀正しく微笑んで病室を後にした。
森口花は彼女の後ろ姿が病室の入り口で消えるのを見つめ、その時になってようやく、目に秘めていた愛惜と未練を解き放った。それは彼の全身を飲み込んでいくようだった。
彼の詩織は、今はとても幸せな生活を送っている。自分がそれを邪魔するべきではない。
ましてや、不埒な思いを抱いて、彼女を自分という泥沼に引きずり込み、共に堕ちていくようなことは、あってはならない。
***
麻衣の風邪は早く治り、不快な症状は何も残らなかった。森口花については、黒川詩織はそれ以上関わることはなかった。
今の彼らはただのビジネス関係であり、彼女ができることは発注者としての礼儀正しい気遣いだけで、その境界線を越えることはできなかった。
会社の業務は順調に進み、彼女が黒川家のお嬢様という立場もあって、墨都の上流社会で名を馳せ、多くのイベントから招待を受けるようになった。
黒川詩織は社交を好まず、断れるものは全て断ったが、旧知の間柄からの招待は断りづらく、時間を作って参加せざるを得なかった。
秘書は彼女のためにターコイズグリーンのスリットドレスを用意し、シンプルにメイクを施した。控えめながら上品で、敬意を示しつつも派手すぎない装いだった。
今日は長老の誕生祝いで、墨都の財界の大物や社会の有力者のほとんどが出席し、杯を交わし、華やかな雰囲気に包まれていた。
出席者の大半は顔見知りで、黒川詩織はシャンパングラスを手に、優雅に挨拶に来る人々と言葉を交わしていた。
談笑の中、見慣れた人影が目に入り、眉をわずかに寄せた。
傍らにいた令嬢は彼女の心中を見透かしたように、小声で言った。「あの松岡お嬢様は最近、社交界で大人気なんですよ。墨都の御曹司たちの多くが彼女の虜になっているとか」
松岡菜穂は赤いハイエンドドレスを着て、ハイヒールを履き、若い男性の腕に寄り添いながら、まるで精巧な陶器のように優雅に振る舞っていた。
黒川詩織は目を伏せ、その目障りな赤を避けるように、何も言わなかった。