現場の状況は混乱を極めていたが、向井和豊は他のことなど気にしている場合ではなく、目の前の人物こそが最も重要だった。
「井上さん……来られたのになぜ事前に連絡してくださらなかったのでしょうか……」
向井和豊は顔を赤らめ、酒臭さを漂わせていた。明らかに先ほどまでクラブの個室で遊んでいたようだった。
井上裕人は不機嫌そうに眉をひそめたが、向井和豊には目もくれず、すぐ近くにいた数人の警備員に向かって言った。「このガラスの破片を全部片付けろ。」
傍らの田中社長もこの時には半分酔いが覚めたようで、目の前の人物は見たことがなかったが、井上さんの名前を東京で知らない者などいないだろう。酔った勢いで井上家のナイトクラブで騒ぎを起こしてしまったことを思い出し、冷や汗が噴き出した。今は存在感を消すように隅で小さくなっており、井上さんに無視されることを願っていた。