第733章:送ってあげる

午後、仕事を終えた伊藤春は一人で会社の前の交差点まで歩き、タクシーを拾おうとした。まずはショッピングセンターに行くつもりだった。

立ち止まってからそれほど時間が経たず、まだタクシーが通りかかるのも見えないうちに、一台のアウディが静かに伊藤春の前に停車した。

窓が下がり、橋本通が中から身を乗り出し、伊藤春に笑顔を向けた。「春さん、今日は車で来てないの?」

橋本通だと分かり、伊藤春は少し驚いたが、もう退社時間だったので、出くわすのも不思議ではなかった。

深く考えず、伊藤春は笑顔で頷いた。「メンテナンスに出してるの」

「どこに行くの?送るよ!」橋本通はそのまま申し出た。

伊藤春は少し戸惑い、心の中で恐縮しながらも丁寧に断った。「いいえ、橋本社長。帝京ショッピングモールに行くだけです。ここから四つ先の交差点ですから、タクシーですぐですよ」

しかし橋本通は口元を上げて笑った。「なんでタクシーなんか拾うの?四つの交差点なんてアクセル一踏みだよ。乗りなよ、どうせ同じ方向だし!」

伊藤春が何か言う前に、橋本通はすでに助手席のドアを開けていた。

その様子を見て、伊藤春は少し照れた笑顔を浮かべながら、手に持っていたバッグを持ったまま乗り込んだ。

車内は清潔で整然としており、インテリアはシンプルで洗練されていた。鼻腔には淡いコロンの香りが漂い、橋本通の雰囲気とよく合っていた。

「ありがとう、お手数をおかけします」伊藤春はシートベルトを締めながら橋本通に言った。

橋本通という人物は、他の成功者のように堅苦しくなかった。彼は少し白川昼に似ていたが、完全に同じというわけではなく、世間知らずな様子で、いつも顔に笑みを浮かべ、人と話すときの口調もとてもカジュアルだった。

プレッシャーを与えることもなく、近づきがたい印象も与えなかった。

だから今の伊藤春の表面的な礼儀正しさに対して、橋本通は軽く笑うだけで返した。「そんなに堅苦しくしないで、大したことじゃないよ」

言葉が終わるとともに、車はゆっくりと動き出した。

伊藤春は男性と二人きりで閉鎖空間にいることがほとんどなかった。橋本通はタクシー運転手とは違い、二人は知り合いではあるが、親しいとは言えなかった。だから無理に話題を作ろうとすると、ぎこちなく感じられた。