伊藤春は好奇心を抑えられず、橋本通を見つめて尋ねた。「あなたはその時、特技として何を書いたの?」
「僕はピアノが弾けるよ」橋本通は眉を上げながら伊藤春を見た。
伊藤春は一瞬驚いた。80年代の日本で、子供にピアノを習わせる親はそう多くなかった。
しかも橋本通の外見からは、彼がピアノを弾くとは思えないだろう。
伊藤春の驚きは顔に全て表れていた。橋本通はそれを見て説明を始めた。「僕は小さい頃から家の環境は良かったんだ。両親も知識人だったから、そういう面では重視していたし、僕自身も好きだった。中学の時はピアノの練習のせいで、勉強がおろそかになったんだ」
「高校の3年間はほとんどピアノに触れなかったけど、慶應を受けるには十分だった。あの頃はピアノが弾ける人はそう多くなかったからね」
元々伊藤春が感じていた少し気まずい雰囲気は、橋本通の何気ない言葉によって自然と消えていった。伊藤春もリラックスした様子になった。
しかし道のりは短く、他の話をする間もなく、車は路肩の駐車スペースに停まった。
シートベルトを外し、伊藤春は今回は遠慮せずに橋本通に向かって言った。「じゃあ行くね、また明日」
橋本通は片手をハンドルに置き、伊藤春を見て微笑んだ。「うん、また明日」
伊藤春は車から降りてドアを閉め、窓越しに橋本通に手を振ることも忘れなかった。橋本通が車で去った後、彼女は振り返ってショッピングモールに入った。
近くのカフェの日よけの下で、細田仲男は呆然とした目で道の向こう側の一部始終を見ていた。
離婚の際、彼が伊藤春に残したのもアウディだった。しかし細田仲男はたった今、彼女が他人のアウディから降りるのを見た。しかも笑顔で車内の人に手を振って別れを告げていた。
表情は暗く、彼は今の心境がどうあるべきか分からなかったが、何の理由もなく胸が詰まる感覚があった。
離婚してからまだそれほど経っていないのに、彼女はもう新しい人ができたのか?
おそらく彼も、たった今の光景だけで車内の男性が伊藤春の新しい彼氏だと推測するべきではないことは分かっていた。しかし女性は想像力が豊かだと言われるが、実は男性も負けていない。
何も見えていないし、何も確認していないのに、心の中では抑えきれない妄想が広がっていく。
「仲男?」
一つの声が細田仲男の思考を現実に引き戻した。