第772章：私のことを井上と呼んでください

細田会長はその言葉を聞いて明るく笑った。「何を言っているんだ、以前私が君を強制したことがあるかい？健康が一番大事だ、くれぐれも気をつけてくれよ」

細田登美子は笑顔で頷き、細田会長と少し世間話をした後、ウェイターに案内させて個室へと向かわせた。

パラダイスのホールに入るとすぐに、次々と人に声をかけられた。登美子は自分が適応できるか心配していたが、思いのほかすぐに昔の感覚が戻ってきた。

彼女はじっとしていられないタイプで、忙しく動き回ることで力強さと安心感を得られるのだ。

オフィスに戻ろうとした時、登美子は目を上げると、パラダイスの入り口から足早に入ってくる見覚えのあるシルエットを見つけた。

その人物は背が高くすらりとしており、深い瞳と比類なく美しい顔立ちをしていた。ただ以前と比べると、今日はグレーのスウェットを着ていて、いつもほどの距離感を感じさせなかった。

井上裕人はまっすぐ前を見て足早に進んでいた。明らかにパラダイスで誰かと待ち合わせがあるようだった。

細田登美子は井上裕人だと気づくと、心の中で葛藤した末、勇気を出して彼の方へ歩み寄り、自ら声をかけた。「井上さん！」

井上裕人は声を聞いて足を止め、横を向くと彼の方へ急ぎ足で近づいてくる細田登美子を見た。

近くに来ても、登美子は緊張を隠せなかった。井上裕人は彼女の後輩で、年齢もかなり若いが、その名声は広く知られており、登美子だけでなく、他の成功した実業家たちも井上裕人の前では緊張せずにはいられなかった。

井上裕人は細田登美子をじっと見つめた。彼女は以前の姿と少し変わっていたが、濃いメイクをすることはなかったので、うっすらとその面影を覚えていた。

「あなたは...」井上裕人は眉間にしわを寄せ、少し考えてから目を輝かせた。「絵里菜のお母さん？」

二人が最後に会ったのはもうずいぶん前のことで、おおよそ半年ほど経っていた。今、井上裕人が自分を覚えていたことに登美子も少し驚いた。

我に返り、登美子は急いで笑顔で頷いた。「はい、絵里菜の母です」

しかし次の瞬間、登美子を唖然とさせる光景が広がった。井上裕人が突然身をかがめて深々と頭を下げ、登美子に対して非常に敬意を込めた態度で「おばさん、こんにちは」と呼びかけたのだ。

この一言で、登美子は思わず叫び声を上げそうになった。