大江雲斗はシートベルトを締め、振り返って山下言野を見た。「三兄貴、怪我は?」
「大丈夫だ」山下言野は淡々と答えた。
大江雲斗は続けて言った。「じゃあ、志村さんに帝苑マンションに直接向かってもらいます」
「ああ」山下言野は軽く頷き、喉の奥から一言を発した。
大江雲斗はエンジンを始動し、車を発進させた。
しばらくして、後部座席の男が再び口を開いた。「分かったか?」
大江雲斗は頷いた。「はい、分かりました」
「律水国の連中か?」山下言野は尋ねた。
大江雲斗は一瞬驚いた。「三兄貴、どうしてそれを?」
すごい!
山下言野は鋭い目を細め、その深い瞳は漆黒で、人を威圧するものだった。
大江雲斗はバックミラーで山下言野を見ながら続けた。「三兄貴、すぐに手配を...」
彼の言葉は途中で山下言野に遮られた。
「必要ない」
大江雲斗は眉をしかめた。
仇を討たないなんて、三兄貴らしくない。
「三兄貴、本当にいいんですか?」大江雲斗は躊躇いながら尋ねた。
山下言野は窓の外を見つめたまま、薄い唇に危険な笑みを浮かべた。「ゲームはまだ始まったばかりだ...」
直接手を出すよりも、
彼は罠にはめて捕まえる方が好きだった。
とても静かな一言だったが、聞いた者の背筋が凍るような言葉だった。
それを聞いて、大江雲斗は喉を鳴らした。
彼には分かっていた。
律水国の連中は終わりだ!
しばらくして。
黒い車は帝苑マンションに停まった。
大江雲斗はすぐに後部座席のドアを開けた。
山下言野が車から出てきた。
白いシャツについた血痕を見て、大江雲斗は驚いて、すぐに手を伸ばして山下言野を支えようとした。
山下言野は眉をしかめた。「大した傷じゃない。手足が動かなくなるほどでもない」
大江雲斗は諦めた様子で。
一生気が強い三兄貴だ!
こんなに怪我してるのに、支えも借りようとしない。
二人が玄関を入ると、白衣を着た男が中から出てきて、山下言野を見るなり表情を変えた。「大丈夫か?」
「死にはしない」山下言野は淡々と答えた。
男はすぐに医療バッグを取り出した。「早く座って、見せてくれ」
山下言野の腹部の傷を確認すると、男は安堵のため息をついた。「縫合が早かったのが幸いだ!でなければ、この傷の深さだと、今頃は救命室にいたところだぞ!」
山下言野の表情は変わらなかった。
男は傷をよく観察しながら、続けて言った。「縫合の手法から見ると、相手は普通の人間じゃないな?ボス、名医に会ったのか?」
そう言って、男は山下言野を見上げた。
山下言野は目を細めた。「彼女が子供だと言ったら、信じるか?」
子供?
男は笑い出した。「ボス、冗談はよしてくれ!私は医者を20年やってきても、こんな縫合技術には達していない。子供にそんな技術があるわけがない!」
しかも、この縫合の手法は、彼が医学を学び始めた頃、有名な教授が言及したある大物の技術によく似ていた。
大江雲斗は驚いて言った。「志村さん、あなたでもこのレベルに達していないなら、三兄貴の命の恩人はどれほど凄いんでしょう!」
志村、本名志村文礼。
彼は有名な医学界の大物、藤原天佑の弟子で、藤原天佑の真髄を受け継ぎ、神醫の名を持つものだ!
しかし今!
志村文礼は相手の方が自分より上手いと言うなんて。
これは大江雲斗にとって、相手が一体誰なのか非常に気になるところだった!
「志村さん、もしかして先生と同じレベルの大物なんですか?」
志村文礼は目を細めた。「師匠より上かもしれない」
大江雲斗は目を見開いた。
藤原天佑先生よりも上手い?
それは神業じゃないか?
山下言野は二人を見た。「準備しろ。二日後に臨海町に出発する」
大江雲斗は頷いた。
志村文礼は山下言野を見た。「ボス、私も行きますか?」
「状況次第だ。今回は任務じゃない」
山下家のおばあさんは仏教を信仰していて、一昨日の夜、仏様に山間部の子供たちを助けて善行を積むように夢で告げられたという。足が不自由なため、代わって孫を山間部の学校に寄付に行かせることにした。
彼女は神秘的に山下言野に告げた。この慈善の旅で必ず良縁に恵まれ、人生の貴人に出会うと。
山下言野は周囲の誰もが手に負えない不良少年だと見做していたが、山下おばあさんの前では不思議なほど素直に従うのだった。
**
小林綾乃は旅館に戻った。
彼女が戻ってくるのを見て、女将は呼び止めた。「お嬢さん、ちょっと待って」
小林綾乃は女将を見た。「何かご用でしょうか?」
女将は封筒を取り出した。「お嬢さん、お母様はもうお帰りになりました。これは彼女から預かっていたものです。それと、二日分の宿泊料も支払われました」
この母娘は一週間前に宿泊し始めた。
小林桂代は黄色く痩せていて平凡だったが、娘の小林綾乃はとても美しく、女将の印象に残っていた。
小林綾乃は封筒を受け取り、中の手紙を取り出した。
手紙の内容は大体、自分のことを大切にするように、先に実家に帰ると書かれていた!
手紙の他に、小林桂代は3万円も残していた。
親心とはこういうものだ。
たとえ元の小林綾乃が小林桂代には何もないと嫌い、愛人だと罵り、母の意思に反して大谷家に残ろうとしても、小林桂代は常に最良のものを娘に残していた。
残念ながら。
母は良い母親だったが、娘は必ずしも良い娘ではなかった。
今や彼女が小林綾乃である以上、娘としての責任を果たさなければならない!
小林綾乃はルームキーを手に、部屋に戻り、温かいシャワーを浴びて、ゆっくり休もうと思った。明日朝早く実家に帰って母を探し、人生の頂点へと導こう!
大谷家の者たちを地に這いつくばらせ、後悔の涙を流させてやる!
シャワーを浴びた後、小林綾乃はバスタオルを巻いて鏡の前に立ち、鏡の中の少女を見つめた。
肌は白く、身長は約170センチ。
細長い目、卵型の顔、笑うとえくぼが出てくる。
典型的な美人だ。
小林綾乃が意外だったのは、この顔が前世の自分とそっくりだということ。
よかった、よかった!
彼女の美貌はまだ健在だ。
小林綾乃は頬に触れながら、鏡の中の自分を見て感嘆した。「私って宇宙無敵スーパー第一美女だよね!」
前世の小林綾乃は典型的な外見至上主義者だった!
この世でも例外ではない。
**
臨海町。
大谷仙依の策略により、この数日間、町中に噂が飛び交い、皆は小林桂代が厚かましい、他人の家庭を壊す愛人だと言い、彼女の娘も私生児だと言っていた。
実は大谷仙依の目的は単純だった。
彼女は小林桂代を死に追い込みたかった。
小林桂代が生きている限り、祖母と母の当初の計画がばれるかもしれない。
第一才女である彼女は、そのような恥をかくわけにはいかなかった。
小林家。
小林桂代は部屋に座り、灰色の顔には生気が失われていた。
義妹の大川素濃は戸口に立って彼女を見つめ、やがてため息をついた。
小林桂代は帰ってきて二日になる。
この二日間、自分から一言も話さなかった。
「ママ、おばちゃんどうしたの?」六歳の小林国史が大川素濃の袖を引っ張った。
大川素濃は声を低くして言った。「おばちゃんは気分が悪いの。あなたが話しかけてあげてね」
夫の小林強輝は青葉市で働いており、三、五ヶ月に一度しか帰ってこない。現在は出張中で、仕事が機密のため連絡が取れず、義妹である大川素濃も義姉とどう話をすればいいのか分からなかった。
「ママ、淫婦ってどういう意味?」小林国史は続けて言った。「どうして皆はおばちゃんが淫婦だって言うの?」
大川素濃はすぐに小林国史の口を押さえた。
しかし遅すぎた。
子供は言葉の意味が分からず、声も抑えなかったため、小林桂代は真っ赤な目でこちらを見た。
大川素濃は口を開いたが、どう説明していいか分からなかった。「あの、お姉さん、誤解しないで...」
小林桂代は何も言わなかった。
誰もが彼女を淫婦や愛人と罵り、軽率な女と蔑むが、彼女は何一つ悪いことをしていない!
結婚証明書は偽物だった。
大谷滝と源楠見こそが本当の夫婦で、彼女には訴える場所さえなかった!
これまでの年月。
彼女はひどく騙されていた。
今では甥っ子までも彼女を淫婦だと言い、こんな人生は生きていく意味があるのだろうか?
バン!
その時、外から小石が飛んできて、窓ガラスを割った。
ガラスが床に散らばった。
大川素濃が反応する間もなく、村の子供たちが彼らに向かって走ってきて、顔をしかめながら言った。「小林桂代は他人の家庭を壊す淫婦!恥知らず!ハハハ!」