「うん」山下言野はボタンを留めながら言った。「気をつけて行ってね」
「はい」
一橋景吾が顔を出して、「小林さん、送っていきましょうか?」
「結構です。南通りまで行くだけですから」
南通りはすぐ近くだった。
一橋景吾は笑いながら言った。「何かあったら電話してください」
「はい」小林綾乃は軽く頷いた。
——
花月マンション。
今日の城井家は大勢の客で賑わっていた。
4LDKの家でも座る場所が足りないほどだった。
城井お母さんは喜色満面で、親戚たちにお茶やお菓子を勧めていた。
城井沙織は書斎のピアノの前に座り、年下の弟や妹たちにピアノを教えていた。
「沙織ちゃんはすごいわね。ピアノは何級まで取ったの?」
質問したのは城井お母さんの遠い親戚の中村香で、世代的には沙織の伯母にあたる人だった。
「6級です」城井沙織は謙虚に答えた。
「この子は本当に素晴らしいわ」
城井お母さんは笑いながら言った。「この子は小さい頃から音楽の才能があって、ピアノの練習も私たちが心配することは一度もありませんでした」
中村香は言った。「うちの柳が沙織ちゃんの半分でも賢かったら、夢の中でも笑って目が覚めるわ」
その言葉を聞いて、城井お母さんの目に一瞬、嘲笑の色が浮かんだ。
すぐに消えたが。
中村香の娘は小口柳という。
醜いだけでなく、200斤もある太っちょで、城井沙織とは比べものにならなかった。
しかも成績も良くない。
いわゆる、その日暮らしのタイプだった。
そのとき、白髪まじりの老婦人が近づいてきて、城井お母さんの腕を引っ張り、小声で言った。「定邦のお母さん、ちょっとこっちに来て」
城井お母さんは振り返り、来た人を見て笑いながら言った。「芝織姉さん、いらっしゃい」
その通り。
来た人は桐山芝織だった。
桐山芝織は頷き、城井お母さんを小さな寝室に連れて行き、小声で言った。「あなたが言っていた田舎の未亡人は来ましたか?」
田舎の未亡人とは言うまでもなく小林桂代のことだった。
城井お母さんはドアを閉めて、「まだ来ていません。7時頃には着くと思います」
それを聞いて、桐山芝織は目を細めた。「確実に7時に来るの?どんな人か見てみたいわ」
誰でも彼でも桐山家に嫁げるわけではない。
それでも彼らの家は青葉市の名家なのだから。