第1章 私が責任を取る

「ねえ、今夜……私と寝てくれない?ひっ……お金、たくさん払うから……」

仁藤心春は酒に酔ってしゃっくりを漏らしながら、手に持っていた癌の診断書を素早く隠し、パーティー会場の廊下で男性の前にまっすぐ立ちはだかった。

これまで、彼女は真面目一筋で生きてきた。道を外れるようなことなど、一度たりともしたことがない。

なのに、彼氏は裏切った。

そして今、医者に余命は一年もないかもしれないと言われた。

もう、真面目に生きるのはやめた。死ぬまで一度も男を知らずに終わるなんて、絶対に嫌だった。

「僕を、欲しいのか?」男は薄く唇を開き、まるで夜風が竹林を吹き抜けるような、艶やかで耳に残る声でそう言った。

「……うん」彼女はぼんやりと頷いた。

目の前の男は、凛々しい眉に繊細な唇、そして奥行きのある切れ長の瞳をしていた。長い睫毛がかすかに揺れるたび、見る者の心をふっと掻き立てるような艶を纏っていた。

今すぐ、彼を手に入れたくてたまらない衝動が、彼女を突き動かしていた。

男の瞳がわずかに揺れた。「僕を欲しがるなら、その代償、払えるのか?」

「どんな……代償なの?」彼女の視線は、彼の言葉とともに動く唇に吸い寄せられていた。薄くて鋭いその唇は、わずかに濡れていて、ひどく魅力的に見えた。

「僕の責任を取れ。死ぬまでな」彼の声が再び、静かに響いた。

「うん。わ、私が……あなたの責任を取る。私が死ぬまで……」

どうせ、余命は一年しかない。なら……それくらい、いいよね。

そう呟くように言うと、心春はそっと背伸びし、自ら男の唇に口づけをした。

柔らかく、温かい唇……これがキスの感触なんだ。五年間付き合っていた山田流真は、手をつなぐことすらままならず、一度もキスしてくれなかった。

あの時、気づくべきだった。あの人はもう彼女のことを愛していなかった。なのに彼女は、馬鹿みたいに五年も捧げてしまった。

彼女は夢中で彼の唇に触れ続けていた。そのすぐ近くで、一部始終を目にした渡辺海辰は、信じられないものを見るような顔をしていた。

マジかよ。この女、まさか二若様の顔に触れて……それだけじゃない、キスまでしてやがる。

だがもっと驚くべきは、あの冷血で有名な二若様が、女に、そんなことをされるままにしているなんて。

塩浜市では「神に逆らってもいいが、温井家には手を出すな」と言われている。

なぜなら、温井家の者は皆、どこか常軌を逸しているからだ。

中でも一番ヤバいのは、おそらく温井家の二若様の温井卿介だ。

過去に、とある大物が彼を怒らせ、その結果、そいつは血まみれの姿で温井家の門前で三日三晩ひざまずき、額を地面に打ちつけて泣きながら許しを請い、ついには、死にかけた。

それ以来、塩浜市では誰もこの御方を怒らせようとはしなくなった。

しかだが今、温井卿介の専属秘書である渡辺海辰ですら、自分のボスが一人の女にこれほど心を許す姿を見るのは、初めてだった。

————

ホテルの一室。

女の両手は、男の片手に拘束され、頭上に押さえつけられていた。

引き締まった男の身体が、ぴたりと女の身体に重なり合う。

荒い吐息が混じり合い、禁忌に触れるような熱が、感覚をじわりと掻き立てていく。

「止めて欲しいか?」その声はどこか冷ややかで、かすかに掠れていた。まるで、胸の奥に渦巻く衝動を必死に押し殺しているかのように。

心春は恥ずかしそうに唇を噛み、目を潤ませながら、目の前の男の顔を見つめていた。清らかな色気に染まった、美しすぎるその顔を。

「やめないで……」

次の瞬間、彼は彼女の服を引き裂いた。

白く透ける肌が、冷たい空気の中に晒される。

唇がその白い首筋に這い、そして、歯が彼女の柔らかな肌にそっと当たったかと思うと、遠慮がちでありながらも、確かな力で甘く噛みついた。

「んっ!」彼女は痛みで小さく声を上げた。

彼は、彼女の首筋に残った噛み跡を満足げに見つめた。まるでそこに、自分だけの印を刻みつけたかのように。

「これからは―― 君は僕の女だ」彼は低く呟いた。

一夜が明けた。翌朝、心春が目を覚ましたとき、全身は鈍い痛みに包まれ、腰は重く、背中にはだるさが残っていた。肌のあちこちには、昨夜の愛の痕が、くっきりと残されていた。

ベッドでまだ眠っている男の顔を、彼女は直視することができなかった。代わりに、枕元に現金の束をそっと置いて部屋をあとにした。

衝動に任せた、一夜限りの関係。けれど、後悔はしていない。ただ、あの美しい男性とは、きっともう二度と会うことはないのだろう。

会社に着くと、山田流真はすでに会議室で彼女を待っていた。同席していたのは、会社の幹部たち、そして島田書雅と言う女性だった。

心春は無表情のまま、席についた。

「本日の会議では、一つ発表があります」流真は立ち上がり、静かに言った。「今後、島田書雅さんが営業部の新しい部長になる。仁藤部長に代わって、営業部を率いてもらう」

その一言に、会議室は水を打ったように静まり返った。

心春の営業実績は、誰もが認めるものだった。この会社を、まさに彼女が一人で支えてきたといっても過言ではない。

それを今、どこの誰とも知れない女に譲るというのか?

書雅は立ち上がり、にこやかに微笑んだ。「皆さま、これから私が営業部を率いて、より良い成果を出していけるよう努めます。どうぞよろしくお願いします」

だが、幹部たちは顔を見合わせ、戸惑いを隠せなかった。

ある幹部が堪えきれずに口を開いた。「島田さんには、営業に関する実績がない。いきなり部長というのは不公平だ。営業部の他の社員たちはどう思うでしょうか」

その言葉に、書雅は思わず唇を噛みしめ、ばつが悪そうな表情を浮かべた。そして、涙をこらえるような瞳で流真を見つめた。

流真の顔は曇りきっていた。「私はこの会社の代表取締役だ。こう決めたのは、会社の未来を見据えてのことだ。この件について、異論は認めない!」

「じゃあ、私が反対したら?」静かな声が会議室に響いた。それは心春だった。

その瞬間、全員の視線が一斉に彼女へと向けられた。

流真は眉をひそめ、不快そうに言った。「君には今、開発部も担当している。これはあくまで君を気遣っての判断だ。負担を減らしてやりたい、無理をさせたくない。それだけだ」

「気遣い?」心春は皮肉を込めた視線で、目の前の男を見つめた。

「気遣いって――私が必死に築き上げたポジションを、他の女に渡すことなの?」

「気遣いって――私の知らないところで、他の女と裸で抱き合うことなの?」

昨日、病院を出た彼女は、手には自分の癌の確定診断書を握っていた。そんな中、彼女が目にしたのは、オフィスで裸で絡み合う、流真と書雅の姿だった。

その瞬間、彼女は悟った。この男の心の中に、自分は最初から存在していなかったのだと。

事態が手に負えなくなったのを察し、流真は声を荒げた。「お前はただの社員だ。決めるのは、俺だ!」

心春はふっと笑った。目元には、涙とも霞ともつかぬ濡れが差していた。

彼女の流真を見る眼差しは、怒りから、落胆へ。そして、いつしかその瞳には、冷めきった色しか残っていなかった。

流真には、感謝すべきかもしれない。彼のおかげで、心の中に残っていた最後の感情すら、跡形もなく消えてしまったのだから。

笑いを止めて、心春は口を開いた。「山田流真、婚約を破棄しましょう」

「……な、何だって?」流真は信じられないというように心春を見つめた。

会議室にいた他の人たちも、皆が愕然としていた。

「婚約を、破棄するって言ったの」心春の声は、砕けた宝玉のように冷たく、重く響いた。「私は会社を辞める。これから先、あなたとは完全に縁を切る。生きていようが、死んでいようが、もう二度と関わることはない。たとえ私が死んでも――お願い、葬式にだけは来ないで」

そう言い残し、心春は立ち上がり、後ろのざわめきを一切振り返ることなく、会議室を後にした。

一方、温井卿介はホテルを出ると、渡辺海辰が既に入り口で待機していた。

「仁藤心春の、ここ数年の資料を調べてくれ」卿介は言った。

「仁藤心春?」海辰は一瞬、聞き慣れない名に戸惑った。

「昨夜の女だ」

「かしこまりました……」そう答えた海辰は、恐る恐る問いかけた。「卿介様、以前から仁藤心春という人をご存知だったんですか?」

というのも、海辰の知る限り、卿介様は感情に流されて女性と関係を持つようなタイプではない。

塩浜市でどれだけの女たちが彼のベッドを狙っても、その誰一人として近づけなかった。なのに、昨夜のあの女にだけは、何の抵抗も示さなかった。

「ああ、知っている」卿介は淡々とそう答えた。

そして次に口を開いたとき、海辰は完全に言葉を失った。

「彼女は、僕の姉さんだ!」