誰もが知っている。温井家の二若様には姉がおらず、従兄と従妹が一人ずついるだけだ。
温井おじいさまには二人の息子がいたが、次男は若い頃に家を出て、それきり行方不明になった。
それから二十年が経ち、温井おじいさまはある子供を連れて温井家に戻ってきた。その子供こそが温井卿介であり、温井家のこの代では、彼は次男にあたる存在だった。
ちなみに、卿介様の父親は、もう十七年前に亡くなっている。ならば、姉がいるはずがない!
海辰の驚いた表情を見て、卿介は口元をわずかに上げた。「どうした?冗談を言ってると思ったか?」
「い、いえ、そんなことは……」海辰は慌てて答えた。
卿介は静かに目を伏せた。――十七年ぶりだ。十七年前、あっさりと自分を捨て去った、あの女と……ついに、再会したのだ。
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バーの中で、山本綾音は心春を見て、舌打ち混じりに言った。「本当に山田流真と婚約を解消したの?」
「ええ。これからは、お互いに別々の道を行くだけ。結婚しようが、誰と付き合おうが、もう関係ないから」心春は淡々と言った。
「未練とかないの?本当に?」綾音は尋ねた。
「全然。今は自分のためにちゃんと生きたいだけ。」心春はあっさりと答えた。
「いいね、その覚悟。あんな山田流真なんて、何様よ!」綾音は言った。
二人はグラスを軽くぶつけて、酒を飲み干した。
その瞬間、どこからか声が飛び込んできた。「おやおや、仁藤部長じゃないですか?今日はこんなところで一杯ですか?」
ずんぐりとした体格に、酔いの回った顔をした男が、ふらふらと心春のほうへ近づいてきた。
心春は嫌悪感を隠さずに眉をひそめた。相手は流真の会社の取引先、小宮盛真という男だ。以前少し関わったことがあったが、そのときから下品で、図々しくて、人の弱みに付け込むようなところが目についていた。
「山田流真に捨てられて、会社からも追い出されたんだってな。どうだ、これからは俺についてくるか?」小宮は目を細めて、いやらしい笑みを浮かべながらそう言った。
「ははっ、仁藤部長はツイてるじゃない?。捨てられても、うちの小宮社長に気に入られるなんて!」隣にいた女があざ笑うように言った。
「うまくご機嫌を取ってくれたら、いいポストを用意してやってもいいぜ?」小宮はそう言いながら、心春に手を伸ばしてきた。
この女をベッドに押し倒す日を、ずっと夢見ていたのだ。
心春に、相手の思い通りにさせるつもりなどなかった。即座に小宮の体を突き飛ばした。「綾音、帰りましょう」彼女は振り返り、綾音にそう声をかけた。
「うん」と綾音はうなずいた。こういう人間とは、関わらないのが一番だ。
だが、二人が歩き出したその瞬間、小宮の手下が前に立ち塞がった。
「このクソ女!酒を勧めてんのに、断るってか?」小宮盛真は怒りに任せて前に出てきて、いきなり心春の頬を平手打ちした。
綾音は怒りに震えて小宮に飛びかかろうとしたが、すぐに彼の手下に押さえ込まれた。
心春の腕を乱暴につかんだ小宮は、テーブルにあった酒瓶を手に取り、そのまま彼女の口元に押しつけようとした。「いいか、今日は俺に尽くしてもらう。逃げられると思うなよ!」
「やめてっ!やめなさい!」綾音は目に涙を浮かべ、必死に叫んだ。
心春は素早く片足を振り上げ、小宮の腹に思いきり蹴りを叩き込んだ。小宮は苦しげにうめきながら蹲み、顔をしかめた。怒りに満ちた目で周囲を見回し、怒鳴り声を上げる。「この女を黙らせたやつに 二百万やる。いいから、さっさとやれ!」
だが、その言葉が終わる前に――突然、誰かの手が小宮の頭をぐっと押さえつけた。もう片方の手がガラス瓶を取り上げ、バンッと音を立てて叩き割った。
割れた瓶の鋭利な口が、小宮の頬にぴたりと突きつけられた。今にも、そのまま目玉を貫きかねない位置だった
その場の空気が一気に凍りついた。
心春は、突然現れた男をただ呆然と見上げていた。
全身黒ずくめ。まるでマネキンのように無駄のない体型。
バーの照明がスポットライトのように男の顔を照らし、その精緻な輪郭を鮮やかに浮かび上がらせていた。
冷酷でありながら、どこか妖艶。禁欲と艶やかさ、その相反する魅力が同居したその存在から、心春は目を離すことができなかった。
「今日は機嫌がいいから、片目だけで許してやる。左目と右目、好きな方を選べ」男はふっと口角を上げ、まるで何でもないことでも語るかのように呟いた。
「お前……」小宮は顔を引きつらせ、怒りと恐怖に震える声を絞り出した。背中には冷や汗がじっとりと滲んでいた。「俺が誰だかわかってるのか!?」
「知る必要があるのか?さあ、どっちにする?選ばないなら、僕が選ぶ」男は淡々と言った。
「手出ししたら、タダじゃ済まさねえぞ!」
ビリッ!
ガラスの破片が小宮の頬を鋭く切り裂いた
酒場中に小宮の絶叫が響き渡る。周りの人々は皆呆然とした。
「左目か?右目か?」男は静かに尋ねた。
寒気が小宮の背筋を走った。相手の目に宿る殺気に、彼の心に恐怖が芽生え、相手が冗談を言っているのではなく、本当に彼の片目を狙っていることを悟った!
男の手のガラスの破片が小宮の目に突き刺さろうとした時、心春の声が突然響いた。
「やめて...」
一度でも本当に小宮の目を傷つければ、この事態は収まらないだろう。
しかし仁春が予想もしなかったことに、男は彼女を見上げ、素直に笑って「はい」と言った。
そしてそのまま本当に手を引いた!
小宮は手下と同行の女性と共に、まるで逃げるようにバーを出た。
バーを出るなり、小宮は恨めしげに言った。「覚えてろよ、このままで済むと思うなよ」
「待って!」同行の女性が突然青ざめた顔になり、声も震え始めた。「さっきの男は...温井卿介よ、温井家の二若様だわ」
「何だって?」他の者たちは驚いた。
「間違いないわ。私...以前温井グループに行った時に、彼を見かけたことがあるの!彼は絶対温井卿介よ!」女性は確信を持って言った。
他の者たちは顔を見合わせ、小宮に至っては地面に崩れ落ちそうになり、まるで幽霊でも見たかのような表情を浮かべた!
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バーの中で、綾音は心春の元へ駆け寄った。「心春、大丈夫?」
「大丈夫よ」心春は言い、彼女に向かって歩いてくる男に向かって「さっきは本当にありがとう」と言った。
「君が『死ぬまで責任を取る』って言ったんだ。なら、僕が君を守るのは当然だ」男は口を開いた。
傍らの綾音は驚いた表情を浮かべた。ちょっと待って、心春がそんなこと言ったの!?
心春もまた驚いて目を見開き、目の前の男を信じられない様子で見つめた。
その言葉...確かに一夜を共にした男に言ったような気がする。まさか彼が...
「もう忘れたの?それとも……僕に責任を取りたくないってこと、お姉さん!」
心春の瞳が、はっきりと揺れた。彼女の記憶の中で、「お姉さん」と呼んできたのは、ただ一人しかいなかった。
——かつて、母親と一緒に暮らしていたことのあるおじさんの息子。彼女のほうが二歳年上だったことから、自然と「姉」と「弟」として呼び合っていた。
「あなたは...卿介?その言葉は、喉の奥から絞り出すように、ようやく口をついて出た。
「お姉さん、覚えててくれたんだ」卿介は手を上げ、心春の先ほど殴られた頬を優しく撫で、眉をほんの少し寄せた。
心春の頭は混乱していた。もし彼が卿介なら、彼女と彼が一夜を共にしたということは...
「綾音、彼と...少し話があるの」心春は友人の方を向いて言った。「あなたは...」
「分かったわ、じゃあ私先に帰るよ!」綾音は察して言った。彼女にも多くの疑問があったが、それは後日聞けばいい。
心春は綾音をタクシーに乗せた後、一緒にバーを出た卿介の方を向いた。「本当に卿介なの?」
「彼になりすましたって、何の得があるっていうの?」卿介は口元にうっすら笑みを浮かべながら、そう問い返す。
「あの夜、最初から私だと分かっていたの?」彼女は尋ねた。
「はい」彼は答えた。
「じゃあ……どうして、私を突き放さなかったの?」心春は力なく言葉を落とした。他の誰でもよかったのに――どうして、よりによって卿介なの?
「突き放す理由なんて、どこにある?」彼は淡々と問い返した。
「だって、あなたは私の弟なのよ!」たとえ法律上は何の関係もなく、たった二年の付き合いだったとしても……彼女はずっと彼を弟として見ていた!
「それがどうした?お姉さんはもう忘れたのか?あのとき、僕を祖父に『売った』ときに――お姉さんは僕は弟じゃない、何の関係もないって、はっきり言ったじゃないか」その声音は、あくまでも優雅で落ち着いていた。まるで天気の話でもするかのように。
一瞬にして、空気が窒息しそうなほど張りつめた。