第3章 彼を甘やかして

心春の体が、かすかに震えた。

あの時、卿介の父親が亡くなったあと、彼の祖父が迎えに来た。けれど、彼はこの家を離れようとしなかった。最終的に、母が一千万元という金を受け取り、卿介を祖父に引き渡したのだった。

忘れられない。あのとき――細く切れ長のその瞳が、どこか虚ろで、ただじっと彼女を見つめていた。「お姉さん、もう、僕のこといらないの?」

「あなたのお父さんはもういない。私はあなたのお姉さんじゃないし、私たちは何の関係もないのよ」その時、彼女は心を鬼にしてそう言った。彼が祖父と一緒に行くことが、当時の最善の選択だと思ったからだ。

「だからあの夜、お姉さんが僕を求めたから、当然応えたんだ。昔から、お姉さんの言うことは何でも素直に聞いていたでしょう?」彼が身を屈め、唇が彼女の首筋を微かに撫でるように触れ、くすぐったい感覚が走った。

心春は思わず一歩後ろに下がろうとした。だが、彼はそれよりも一歩近づいてくる。

「どうしたの?お姉さんは、僕が近づくのは嫌?」

「私たちはもう大人なの。子供の頃みたいにはいかない!」彼女は両手を彼の胸に当て、押しのけようとしながら言った。「それに……さっきは私を助けてくれたけど、小宮盛真みたいな人を敵に回したら、後が面倒になるかもしれないし――」

彼女の言葉が終わらないうちに、両手は簡単に背後に捻じ上げられ、彼に腰を抱かれて、二人の体が一瞬で密着した。

柔らかな彼女の感触と、硬く熱を持った彼の体が触れ合う。

心春の顔が一気に真っ赤になった。

「お姉さん、僕たちはもう子供の頃よりもっと親密なことをしたじゃないか」低く、冷ややかな声が、耳元で囁くように落ちる。その唇は彼女の口元をかすめるように触れ、まるで次の瞬間には飲み込まれそうな距離で。「あの夜、最初に僕を求めたのはお姉さんだよね?」

そうだ、あれは、確かに彼女からだった。心春は乾いた唇を噛んで、しばらくしてから言った。「ごめん。それより……この数年、元気にしてた?」

「もし僕が上手くいってないって言ったら、お姉さんはどうするの?」彼は問い返した。

「養ってあげる」彼女は思わず口走った。けれど今のこの体勢で言うには、あまりに滑稽すぎた。

彼の瞳の色が深まり、唇がゆっくりと彼女の耳元に移動し、湿った吐息が耳を撫で、彼の唇がそっと耳たぶを吸った。「どうやって、僕を養うつもり?」

その声音は、問いというより、誘惑そのものだった。

心春の体がびくんと震える。「卿介、やめて」

「でもあの夜、お姉さんが僕にしてくれたことと、同じだよ?」

あの夜の自分を思い出すたびに、ほんとに言い訳のしようがなかった。心春は必死に気持ちを落ち着けて、なんとか口を開いた。「今どこに住んでるの?どんな仕事してるの?」

「定まった住処はないし、仕事は必要なものをやってる程度だよ」

彼は塩浜市にいくつもの邸宅を持っているが、どこか一箇所に定住することはなく、仕事については現在温井グループの社長として、会社の多くの事務を取り仕切っていた。

しかしこの言葉は心春の耳には別の意味に聞こえ、彼の生活が恵まれていないのだと思い込んでしまった。

「じゃあ、とりあえず私と一緒に住まない?仕事を変えたいなら、私が手伝う」彼女は言った。

「なぜ僕を助けたいの?」彼は彼女の首筋に顔を埋めたまま、低く呟いた。

なぜなら彼は卿介だから。一番、彼女が償いたいと思っている人だから。

「だって、私は言ったから。『死ぬまで責任を取る』って言ったでしょう」彼女は真剣な眼差しでそう告げた。

たとえ命があと一年しか残されていなくても。心春には、彼のためにできることがまだたくさんある。彼に、もっと幸せになってほしいと、心から思っていた。

卿介はふと身体を起こし、彼女を見つめた。そして、ふっと笑うその口元に浮かぶ緩やかな笑みは、まるで春を呼び込むかのように柔らかく、美しかった。「いいよ。今度こそ、お姉さんもう約束を破っちゃダメだからね!」

————

心春の住まいは、3LDKの110平方メートルのマンションで、購入した当時は今ほど不動産価格が高騰していなかった。

マンションは市の中心部という好立地にあり、今売れば約一億円近くの価値がある。

心春は空いている洋室の一つを卿介に与え、その後彼と一緒にショッピングモールへ服を買いに行った。

「普段好きなブランドはある?」彼女は尋ねた。

「このブランドが好きだな」卿介は指を上げ、近くにある店を指さした。

心春はそれを見て、思わず息を呑んだ。

彼が指さしたのは、一流のラグジュアリーブランドで、そこの服は一着で数十万円から数千万円もする。

「お姉さん、僕に買ってくれるの?」卿介は頭を下げ、からかうように尋ねた。

心春は歯を食いしばった。「買うわ!」

自分の弟なのだから、甘やかさなければ!

二人は店に入り、心春は店内のポスターに映るモデルの着ているコートを指さして言った。「このコートを彼のサイズで試着させてください」

卿介がコートを着ると、見る者の目を奪うような姿になり、先ほどまで淡々としていた店員さえ、思わず目を見張るほどだった。

心春は卿介を見つめ、彼が本当に服を着せるために生まれてきたような人。この服を着て、その顔立ちと相まって、ポスターのモデルよりも魅力的に見えた。

ただし、七十六万円という価格は確かに安くはない。

「本当に僕にこの服を買ってくれるの?」卿介の声が彼女の耳元で低く響いた。

心春はふと彼を見つめ、その顔の奥にまだ幼かった頃の彼の面影を重ねていた。

あの頃、母は未婚のまま彼女を産み、父親が誰なのかもわからないまま育ってきた。

そんな彼女が九歳のとき。母は卿介の父と同居を始め、彼と自然に「姉」「弟」と呼び合うようになった。

あの頃の彼女には、まるで本当の家族ができたかのような錯覚があった。父親がいて、弟もいる――そんなふうに、思い込んでいたのだ。

「卿介、これからはあなたのこと、ちゃんと大事にするわ」心春は呟くように言い、その輝く瞳で彼を見つめた。「あなたの好きなもの、私が全部買ってあげる」

そのとき、数人の女性たちが笑いながら店内に入ってきた。島田書雅たちだった。

彼女たちは心春を見て一瞬驚いた様子を見せた。

「まさか、あなたがこんな高級ブランド店に来てるなんて思わなかったわ。昔のこと思い出すと、あなた確か奨学金もらって、毎日かわいそうにまんじゅうばかり食べてたじゃない!」

心春は話しかけてきた人を一瞥した。坂下倩乃だ。書雅の親友で、大学の同級生だった。

彼女は相手を無視し、近くにいた店員に言った。「彼が着てるこのコートをください」

「かしこまりました」店員は応じた。

「はっ、仁藤心春、山田流真に振られたから若い男を探したの?でも見栄を張って無理するなんて、この男知ってるの?」倩乃は前に出て更に皮肉を言った。

しかし卿介の容姿をはっきりと見た時、彼女は一瞬驚いた。心春はどこでこんなイケメンを見つけてきたのだろう。

「心春、倩乃にムキになってそんな高い服を買うなんて、やめておいたほうがいいわよ。今のあなた、会社辞めて頼る人もいないんでしょ?」書雅が口を開いた。

「書雅、そんな人にいちいち同情なんかしなくていいのよ。彼女が稼げたのだって、流真の会社にぶら下がってただけでしょ?たまたま運よく舞い上がっただけのサルが、自分の力で飛べたとでも思ってるなんて――ほんと、滑稽すぎるわ」倩乃は直接心春をサルに例えた。

他の人たちはクスクスと嘲笑い声を上げた。

心春は冷たく笑った。彼女たちは皆、彼女が流真に頼っていたと思っているが、実際は流真が彼女に頼って会社を今日まで発展させてきたのだ。

流真の会社で売れ筋となった商品や、稼ぎ頭のプロジェクト。それらのほとんどが、心春の手によるものだった。

倩乃は心春が黙っているのを見て、認めたものと思い込み、今度は卿介の前に進み出て、挑発的に口を開いた。「私と付き合ってみない?仁藤心春ができることなら、私にもできる。それ以上のことだって、してあげられるわよ」

倩乃は心春よりも自分の家柄がずっと上だと、心の中で当然のように思っていた。うちは小さいながらも工場を経営していて、両親からのお小遣いにも困ったことはない。こんな若い男の一人や二人、ちょっとその気になれば落とすなんて朝飯前――そう思っていた。

心春は眉をひそめ、何か言おうとした時、卿介が先に口を開いた。「僕に、君と付き合えって?」