第4章 行かないで、そばにいて

「もっと買ってあげられるわよ」倩乃は即座に言った。

卿介はふと唇を緩め、ほのかに微笑んだ。

その笑みは、まるで春風のように柔らかく、目元に漂う艶やかさと相まって、倩乃の心を揺さぶった。

傍らにいた書雅でさえ、思わず目を見張るほどだった。

「君と一緒になるのも、悪くはないよ」そう言って、卿介は玉のように白くしなやかな指先をふわりと動かし、隣のショーケースに並んだいくつかの高級ブランド品を順に指さした。「じゃあ、これと――これと、それからあれも。全部、僕に買ってくれる?」

この言葉に、倩乃の顔色がみるみるうちに変わった。

彼が示した品々は、ざっと見積もっても一千万は下らない。

卿介はふっと笑い、さらりと言い放った。「やっぱり、お金はないんだね。だったら、そんな大きなことは言わないほうがいいよ」

そう言って、心春の方を向いた。「行きましょう!」

倩乃は怒りで顔を真っ赤に染めた。とくに、特に心春の目の前でこんな恥をかかされたのだから、なおさらだ。

彼女は突然手を上げて仁春の顔に向かって振り下ろそうとしたが、次の瞬間、倩乃の口から悲鳴が上がった。

振り上げた手は、すでに卿介にがっちりと掴まれていた。

「は、放して……っ!」倩乃は苦しげに叫んだ。顔には明らかな痛みが滲んでいる。

しかし卿介は全く気にする様子もなく、むしろ指の力を強めた。

書雅が慌てたように心春へと声をかけた。「心春、私たちは同級生でしょう。この方に手を離すように言って。このままだと、倩乃の腕が折れちゃうかもしれないわ!」

心春は眉をひそめた。倩乃の腕がどうなろうと、正直どうでもよかった。もし卿介がそうしてしまえば、訴訟を起こされる恐れがあった。

「卿介、彼女を放してあげて」心春は言った。

「許してあげるの?」卿介は眉を上げた。

「うん」

卿介はそっとまぶたを伏せ、静かに手を離した。

「いい子ね」心春はほとんど無意識に手を上げ、卿介の額に触れようとしたが、すぐにその動きを止めた!

癖って、怖い。

昔、彼が素直に言うことを聞いたときは、決まって彼のおでこをぽんぽんと撫でていた。

でも今は...

気まずさに手を引こうとしたそのとき、彼は彼女の手を掴んで、自分の唇まで持っていった。

男性の唇が、女性の手のひらにキスをした。

周りの人々は、この光景を目を丸くして見つめていた。

心春は手のひらが火傷しそうなほど熱くなるのを感じた。それなのに彼の指は彼女の手をしっかりと掴んでいて、手を引っ込めることができなかった。

「僕は君に触れられるのが好きだから、もっと触れてくれていいよ」冷たい声で、率直に言った。

周りの人々は息を呑んだ。心春の頬も熱くなった。この人、自分がどれだけとんでもないことを言ってるか、わかってるの?

書雅は心春を見つめるその目に、ほんの一瞬、軽蔑の色を浮かべた。この男、いくら顔が良くたって、所詮はヒモ。流真には到底かなわない。

もうすぐ流真の会社は上場する。そして彼女はグループの会長夫人になるのだ。

心春なんて、もう何者でもない!

会計を済ませ、心春と卿介が帰ろうとすると、手首がまだ痛む倩乃は、二人が立ち去ろうとするのを見て、すぐに脅し文句を吐いた。「覚えておきなさい。今日のことは...」

卿介は振り返って倩乃を冷たく一瞥し、彼女の残りの言葉は喉に詰まった。

背筋に寒気が走った。

————

心春はショッピングモールで卿介にたくさんの物を買ってあげ、ようやくお金持ちの女性たちがなぜ若い人にお金を使って買い物をするのが好きなのか分かった気がした。

この楽しみは、実際に経験してみないと分からない。

まるで子供の頃、大好きな人形を飾り付けていた時のように。

特に、あの子がふっと顔を上げて、こっちに微笑んでくれたときなんて。心までとろけそうになった。

二人がショッピングモールの入り口に着いた時、心春は言った。「ここで待っていて。車を持ってくるから」

しかし卿介は彼女に答えず、代わりに前方のある人影を凝視し、顔色が青ざめていった。

「どうしたの?」心春は彼の視線の先を見たが、遠くのバス停の方向を見ているだけだった。

彼は何も答えなかった。ただ、薄く閉じた唇が、ぎゅっと結ばれたまま。その肩が、微かに震えていた。

あれは、彼女なのか?子供のころ、何度も悪夢を見せられた。あの女?

自分を産んだはずの、「母親」と呼ばなければならない、あの人間なのか?

「卿介、卿介!」懐かしい声が、耳元で優しく響いた。まるで、彼の中にある恐怖すべてを、そっと包み込むように。

彼の視線はゆっくりと目の前の顔に戻った。清楚で上品な顔立ち、十数年間心の中で恨んできた人。しかし、この瞬間、彼に安心感を与えてくれた。

彼の体の震えは徐々に収まっていった。

「病院に行く?送っていこうか?」心春は心配そうに尋ねた。

「大丈夫。……何でもないよ」卿介は長く息を吐いた。いや、もしあの女性がまだ生きているとしても、今頃は歳を取っているはずで、あんなに若く見えるはずがない。

あれは記憶の中の女性に似た人がいただけだ。

「本当に?」彼女はまだ心配そうだった。

「本当に大丈夫」彼はそう答えながら、ふっと腰を折り、そのまま彼女の肩に頭を預けた。

でも、なぜ彼に安心感を与えられるのは、かつて彼を見捨てたこの女性なのだろう?!

————

悪夢が、また襲ってきた。

夢の中で、女性がが、手に取れるものすべてを使って、彼を何度も打ちつけていた。

定規かもしれないし、棒かもしれない。鉄の物や箒のようなものかもしれない。体に当たると、とても痛かった。

「なんで泣かないの!?泣けってば!泣けよ!」女の怒鳴り声が耳をつんざく。美しかったはずのその顔が、次第に醜く、歪んでいく。

でも、彼には泣き方が分からなかった。

彼を産んだ女性は、いつもこうして彼を殴り、全身が傷だらけになり、息も絶え絶えになるまで。

「全部あんたのせいよ!化け物め!」女性は叫んだ。「あんたなんか産んだって、何の役にも立たない!結局、私は今でも温井家の門をくぐれない。あのクソじじい、私のことなんて相手にしないのよ!」

「こんな化け物なんか産まなきゃよかった!」

「もし、あんたさえいなければ――私はこんな人生じゃなかったのに。死ね、死ねよ!」

女性は狂ったように叫びながら、両手で彼の首を締めつけた。呼吸が、できない――

……苦しい。死んでしまえば、少しは楽になれるのかな。

本当に、自分なんか、生まれてこなければよかったのかもしれない。

「卿介!卿介、目を覚まして!」あの懐かしい声が、再び彼の耳元で響いた。

まるで、底なしの深淵から引き上げてくれるかのように!

今では、彼を「卿介」と呼ぶ人は一人しかいない。それは...

「お姉さん...」卿介はゆっくりと目を開けた。目に映ったのは、あの清楚で上品な顔だった。

淡い黄色の灯りが彼女の頬に柔らかく落ち、その瞳には、深い不安と心配の色が浮かんでいた。

僕のことを、心配してくれているのか?

かつてお金のために冷酷にも、もう関係ないと言った人なのに!

「私よ!」彼女はティッシュを取り、彼の額の冷や汗を拭った。「今、悪夢を見てたの?たくさん汗をかいてる」

卿介のまつ毛が微かに震えた。そう、彼は悪夢を見ていた!

実の母親に虐待されていた昔の光景を夢に見ていた。

「濡れタオルを持ってきて、ちゃんと顔を拭いてあげるわ」心春は言いながら、立ち上がってバスルームへ向かおうとした。

しかし彼女が一歩踏み出したとき、冷や汗で濡れた手が彼女の手首を掴んだ。

「行かないで、そばにいて!」