第5章 抱きしめてほしい?

心春は、そっと振り向いて卿介を見た。

彼はほんの少し顎を上げたまま、じっと彼女を見上げていた。あの色気を帯びた切れ長の瞳は、今はどこか虚ろで、まるで幼い頃の彼に戻ったかのようだった。

そして、そのかすれた声には、壊れそうなほどの弱さがにじんでいた。まるで、懇願するように。

「タオルを取りに行くだけよ」と彼女は説明した。

「タオルなんて要らない。昔みたいに、ただ側にいて!」と彼は再び言った。

心春は、一瞬息を呑んだ。昔みたいに?

彼は幼い頃も、よく悪夢で目を覚ましていた。そのたびに、彼女は彼を抱きしめて、一緒に眠っていた。長くて寂しい夜を、朝が来るまでずっと。

でも今は、もう大人になったのに。

「ダメ?」彼女の沈黙に、卿介の切れ長の瞳に、うっすらと失望の色がにじむ。

「いいえ!」彼女はふうっと息を吐いて、微笑んだ。昔みたいに、ね」

その瞬間、卿介は彼女を力いっぱい抱きしめた。

心春は小さく呻いた。彼の腕は、あまりにも強く、息が詰まりそうになるほどだった。けれど、その震える手は、まるで、溺れる人が最後の浮き輪を必死に掴んでいるようだった。

顔を彼女の胸元に埋め、二人の脚は自然に絡まり合う。彼の呼吸一つ一つが、薄いパジャマ越しに伝わってきて、それが妙に熱く感じられた。

「お姉さん、あの時僕を捨てたこと、後悔したことある?」卿介が突然尋ねた。

心春の体が一瞬こわばった。後悔?実は今でも後悔していない。あの時、彼が自分と母と一緒に行っていたら、もっと悪い生活になっていたかもしれないから。

「お姉さんは後悔してないみたいだね」彼は低く笑った。

その笑い声は、彼女の胸に重くのしかかり、心臓を痛めつけた。

彼女の両手が、ゆっくりと卿介の髪に触れた。まるで子供のころのように、優しく、何度も何度も撫でるように。「卿介、これからはとても大切にするわ。今度は、私が死なない限り、絶対に見捨てたりしない。本当よ!」

一年、残されたこの一年で、彼にできる限りの愛を注ごうと、そう決めた。

「そう?」卿介はそっと目を閉じた。「じゃあ、楽しみにしてるよ。お姉さんが、僕にどう『優しくしてくれる』のか」

もし彼女がこの誓いを破るなら、待っているのは地獄の底だ!

————

こんなに良く眠れたのは久しぶりだった!

あの夜、ホテルで彼女を抱いたあと、あんなにも深く眠れたのは、あの時だけだった気がする。

しかし、昨夜とあの夜は違う。昨夜は、ただ寄り添って眠っただけ。子供の頃のように。

子供の頃……

卿介の瞳に冷たい色が浮かんだ。もう自分に言い聞かせていたはずだ。あの頃のことは、もう何の意味もないと。

ベッドから降りて、身支度を整えて寝室を出ると、ダイニングテーブルに朝食が置かれており、メモが添えられていた。

メモには:

卿介へ、朝食におかゆを作ったわ。おかずと一緒に食べてね。冷蔵庫にミルクがあるから、電子レンジで温めて。会社で少し用事があるから先に行くわ。

差出人はお姉さんと。

卿介はそのメモを手に取り、しばらく呆然と見つめていた。

しばらくして、冷蔵庫からミルクを取り出し、コップに注いで温めた。

そして箸を手に取り、ダイニングテーブルに座って、心春が用意した朝食を食べ始めた。

一時間後、卿介はマンションから少し離れた場所に停めてある黒いベントレーに乗り込んだ。

車内で、秘書の渡辺海辰は我慢できずに尋ねた。「卿介様、仁藤さんと同棲するおつもりですか?」

「まあね」卿介は淡々と笑った。「面白いだろう?」

面白い?

海辰は思わず震えた。

前回、卿介様が面白いと言ったのは、塩浜市のある大物が温井家の門前で土下座し、最後に腕を折られた時だった。

今回は、この仁藤さんがどんな目に遭うのだろうか!

そして海辰を最も驚かせたのは、この仁藤さんが以前、卿介様の血のつながっていない姉だったという事実だった。

「しかし、もしおじいさまがこの件を知って、お尋ねになったら……」海辰は続けた。

「そんな些細なこと、おじいさまは気にしない。聞かれたら、そのまま答えればいい」卿介は無関心そうに言った。

温井おじいさまにとって、重要なのは誰が最も強いかということだけだ。

温井家では、たとえ骨肉の争いであっても構わない。なぜなら、おじいさまが望むのは、ただ最強の者を選び出し、温井家を継がせることだけだから!

————

心春は会社に来て、自分のデスクの整理と、研究開発部門と営業部門との引継ぎ作業を行っていた。

両部門の社員たちは必死に引き止めようとした。

「仁藤部長、本当に辞められるんですか?あなたがいなくなったら、研究開発部は……」開発部が今のようなヒット商品を生み出せているのは、彼女の存在あってこそだった。

しかも心春は複数の特許権を持っている。

彼女が退社すれば、それらの製品を会社側が使用することもできなくなる。つまり、開発体制そのものが大きな打撃を受けることは間違いなかった。

「仁藤部長、あなたは会社設立当初からいらっしゃって、営業部もずっとあなたが管理されてきました。業績も良好です。すぐに辞めるのではなく、もう一度山田会長と相談してみましょう。会長も会議での決定を撤回するかもしれません!」

心春は微笑んで、目の前の同僚たちを見つめた。「私はもう決めたの」

「でも……」

そのとき、山田流真と島田書雅が近づいてきた。

流真は心春の手元にある私物の入った段ボール箱を見て、表情を変えた。「本当に辞めるのか?」

「冗談だと思ったの?」心春は皮肉っぽく笑った。

「心春、俺はお前に公私をきっちり分けてほしいと思ってる。俺に不満があって、婚約を解消したいっていうなら、それは受け入れる。でもな、仕事は仕事だ。私情を仕事に持ち込むな」流真は口を開いた。

心春は冷笑した。彼の口から出る言葉は、まるで婚約解消が彼女の過ちであるかのようだった。

「心春、流真が私を会社に呼んで営業部を手伝わせるのは、別にあなたを狙ってるわけじゃないのよ?気にしないで。彼はただ私にあなたの仕事の一部を分担させて、あなたの負担を軽くしたいだけなの」書雅は、あくまで善意を装った笑みを浮かべながら言った。

それに乗じて、流真も口を開く。「そうだよ、お前は開発部と営業部の両方を抱えてたし、正直キツかっただろ?だから書雅に営業部を手伝わせて、負担を減らそうと思っただけなんだ。もちろん嫌なら、顧問として関わってもらってもいいし、営業の仕事も引き続き任せるつもりだよ」

「顧問?」心春は流真を見据え、冷笑を浮かべた。「つまり、営業経験も実績もゼロの人間に私のポジションを譲って、私はその子の尻ぬぐいをするってわけね?山田流真、私をバカだと思ってるの?」

書雅の表情が暗くなった。場所が適切でなければ、とっくに怒りをぶちまけていたに違いない。

「どうして書雅をそんな風に言うんだ?」流真は声を荒げて、心春を睨みつけた。

「山田流真、あなたが島田書雅を理想の人として大切にしたいなら、それは構わない!二人が密会してても関係ない。でも、売女のくせに貞女ぶるのはやめなさい。まるで私のためを思ってるみたいな態度、本当に吐き気がする!」

「何を言い出すんだ!」流真の表情が暗くなった。「私のことはいい。でも書雅に謝れ!」

謝るって、冗談じゃない!

心春はスマホを取り出し、録音を再生した:

「書雅、待っててくれ。俺、あいつとはちゃんと婚約を解消するから」

「えっ……ほんとに? んっ……ちょ、ちょっと、そんなに強くキスしないでよ……あっ……や、優しくして……」息が漏れるような声が重なり、何が行われているのか、誰の耳にも明らかだった。

「未練なんてあるわけない。……俺が本当に愛してるのは、君だけだよ。仁藤心春なんて、一度たりとも好きになったことなんてない」

山田流真と島田書雅の声がスマホから流れ出た。

その場にいた全員が愕然とした表情を浮かべた!