小山千恵子が癌と診断された時、心の中では全く意外ではなかった。
母親もそうして逝ったのだから、心の準備はできていた。
でも少なくとも、母親は彼女を産んでくれた。
しかし自分のお腹の小さな命は、もう守れそうにない。
「……小山さん?小山さん?」
横山先生が何度も呼びかけ、千恵子はようやく我に返り、かすれた声で「すみません」と言った。
彼女は突然気を失い、通行人に病院へ運ばれ、下腹部が絶え間なく痛んでいた。
横山先生は外を見て、口を開いたが、結局言葉を飲み込んだ。
痩せた女が、ベッドに一人寂しく横たわり、付き添いの家族は誰も来ていなかった。
「現在の血液検査と体調を考えると、直ちに妊娠中絶手術を行う必要があります。このままでは命の危険があります。ご家族に来ていただいて、すぐに手術の手配をしましょう。」
家族?
千恵子の表情が暗くなった。
「同意書を出していただけませんか?私が署名します」
横山先生は腕を組んで、顔をしかめた。「手術のリスクは高いんですよ。私たちにはその責任は負えません!」
千恵子は携帯電話を受け取り、少し躊躇してから、よく知っている番号に電話をかけた。
かつては、事の大小を問わず何かあれば、一本の電話で浅野武樹はすぐに彼女のもとへ駆けつけてくれた。
こんなにも速く、人も心も変わってしまうとは思わなかった。
七回ぐらい呼び出し音が鳴った後、やっと電話に出てくれた。
男は低い声で、いらだちを隠さずに話し始めた。
「何の用だ?」
携帯から冷たい空気が伝わってきて、千恵子は携帯を握りしめ、指先が白くなり、腹部の激痛に耐えていた。
「武樹、私、第一病院にいるの。署名を……お願いできないかしら?」
彼女はまだ、自分が癌で、子供も守れないことを告げたくなかった。
彼女は諦めきれず、まだ一縷の望みをかけていた。
「離れないんだ」
浅野武樹は桜井美月のカウンセリングに付き添っており、冷たい口調で言い、すぐに電話を切ろうとした。
千恵子は唇が白くなり、肩が少し震え、顔色がさらに青ざめた。
「署名してくれたら、離婚してあげるわ」
浅野武樹は冷笑し、低く嗄れた魅力的な声に、刃物のような鋭さが込められていた。
「無駄な策を弄するな。小山、前から言っただろ、子供を産んだら離婚するって。お前の意思は関係ない」
静かな病室に、携帯の音がくっきりと響き渡った。
横山先生は同情的な眼差しを向けたが、千恵子は見なかったふりをした。
そうだ、浅野武樹がこの結婚を維持しようとしているのは、すべてこの腹の中の赤ちゃんのためだった。
彼女がプライドを捨てて、離婚を拒んでいた理由も、赤ちゃんに自分のように、生まれた時から父親がいない思いをさせたくなかったからだ。
今、子供はいなくなった。
この結婚は、千恵子にとっても浅野武樹にとっても、もう存在する意味を失った。
千恵子は胸が締め付けられ、鼻が詰まり目が熱くなり、何か言おうとした時、電話から伝わってきた声に遮られた。
「桜井美月さんのご家族の方はいらっしゃいますか?」
浅野武樹はすぐに応答し、低く落ち着いた声で答えた。「俺です」
千恵子は体を震わせ、涙目になりながらも、かすかに笑った。
まるで張り詰めていた糸が、ついに切れたかのように。
千恵子は目の前が暗くなり、意識を失い、病室に血の匂いが漂い始めた。
「患者が大量出血ショック、産婦人科手術室準備してください!」
浅野武樹が電話を切ろうとした時、携帯から微かに雑音が聞こえ、その後電話が切れた。
男は眉間にかすかな不安を押し殺し、いつも通りの鋭く冷静な表情で、診療室のドアを開けた。
第一病院。
千恵子はとても長い夢を見ていたようだった。夢の中で彼女はずっと泣いていた。
でも涙は、すべて浅野武樹の温かい手のひらに落ちていた。
男は飽きることなく、尽きることを知らない忍耐力でもあるかのように、優しい声で彼女を宥め続けた。
激痛の中、千恵子は目を覚ました。まぶしい白い光で目を開けることができなかった。
体と心のどちらが痛いのか、区別がつかなかった。
そうだ、彼女と浅野武樹はもうすぐ離婚するのだ。
あれほど長く愛し合っていた歳月も何の意味もなかった。
かつては転んだだけでも、浅野武樹は彼女を抱えて地面に足をつけさせないほどだった。
今は手術室に運ばれても、彼は無関心でいられる。
看護師が入ってきて、定期的な回診をしていた。「小山さん、お目覚めですか?どこか具合が悪いところはありますか?」
千恵子は首を横に振った。紙のように青白い顔は、今にも消えてしまいそうなほど脆く見えた。
看護師はベッドを上げ、点滴の速度を調整した。「ご家族が来られています。外で手続きをしていて、すぐこちらに来られます」
千恵子は驚いて顔を上げ、目に小さな光が宿った。
彼が来たのか?
足音が遠くから近づき、横山先生の声が病室の入り口で響いた。
「……次回はもっと早く来てください。奥さんがこんな状態なのに、意地を張るのはよくありませんよ」
ドアが開き、千恵子の心臓は喉元まで上がった。
男は横山先生の後ろについて、何か言いたげな表情をしていた。
千恵子を見た瞬間、笑みを浮かべた。
「千恵子さん、目が覚めましたか?」
その姿を見た瞬間、千恵子は一瞬固まり、胸の奥で硝子細工の心臓が音もなく散った。
彼ではない、浅野武樹のはずがなかった。
彼女はまだ期待を抱いていたなんて。
千恵子は目の中の感情を隠し、口角を動かして微笑みを作った。
「隆弘くん、どうしてここに?」
来たのは祖父の介護人、千葉隆弘だった。
若い男性はジーンズとグレーのパーカーを着て、普通の大学生のような格好をしていた。
手には領収書と検査結果の書類を持ち、急いで来たらしく、額に細かい汗が浮いていた。
千恵子の目が一瞬暗くなったのを、彼は見逃さなかった。
自分は千恵子が待っていた人ではないことを知っていた。
千葉隆弘は気を取り直し、笑顔を見せた。「療養院の方は手配しましたから、お爺さんのことは心配いりません」
千恵子は彼が差し出した温かい水を受け取り、うなずいた。「ありがとう」
横山先生は幾つかの言葉を残して、部屋を出て行った。
病室は静寂に包まれた。
千葉隆弘はベッドの横に座り、作り笑いを浮かべて話し始めた。
「あなたの病気について……横山先生から聞きました。まずは投薬治療で様子を見て、だめなら化学療法をしましょう。骨髄移植のドナーは時間をかけて探してみます」
千恵子は視線を逸らし、窓の外を見つめ、目は死んだ水のように静かだった。
「適合するドナーを見つけるのは砂漠から針を探すようなものだ。もう探さなくていい、意味がないわ」
千恵子はずっと、へこんでしまったお腹に触れる勇気が出なかった。
また大切な人をもう一人失ってしまった。
母が亡くなった後、祖父は彼女唯一の肉親だった。
でも、ほとんどの時間帯、祖父は彼女のことを覚えていなかった。
千恵子の孤独な世界で、浅野武樹はかつて彼女唯一の光だった。
一年前、浅野家の養女、桜井美月が事故に遭い、千恵子は未遂の殺人犯として彼女に名指しされた!
いつも彼女を最も庇ってくれた浅野武樹は、それを深く信じ込み、離婚を切り出した。
千恵子は俯き、空っぽの手のひらを見つめた。
彼女もまた、身寄りのない人だった。
千葉隆弘は千恵子の疲れ切った表情を見て、もう何も言わず、立ち上がって彼女の布団を直した。
突然病室のドアが開き、足音が入り口で止まった。
千恵子は千葉隆弘の肩越しに、真っ黒なスーツを着て、不機嫌そうな表情で病室の入り口に立つ男を見かけた。
浅野武樹は低い声に怒りに満ちて、鷹のような目つきでベッドの横の男を見つめ、恐ろしいほど冷たい表情で、唇に嘲りを浮かべた。
「小山千恵子、これが子供を堕ろした理由か?」