第110章 この方はもういらっしゃいません

藤原晴子の胸が締め付けられ、一時的に呼吸が急促になり、取り乱さないように自分を抑えていた。

「だから、あなたは...どうするつもり...もう浅野武樹に話したの?」

寺田通は藤原晴子が慌てている様子を見て、両手を強く握りしめ、どうしていいかわからない様子だったので、急いで口を開いた。

「いいえ!まだ浅野社長には返事していません。」

藤原晴子は急に彼の方を向き、希望と戸惑いの混ざった目で見つめた。「なぜ?」

寺田通は藤原晴子の視線を避け、まぶたを伏せ、言葉を選びながら話した。

「知りたいんです。あなたと小山お嬢さんが浅野社長に隠している理由を。」

藤原晴子はほっと息をついたが、それでも背筋がぞくぞくした。

彼女はミネラルウォーターを開け、数口飲んで、やっと喉の硬さが和らいだ。

「ふん、理由ね。寺田通さん、恋愛したことないでしょう?」

寺田通は質問に戸惑い、珍しく顔を赤らめた。

答えるべきか迷っているうちに、藤原晴子は独り言のように続けた。

「相手が自分を愛していることを知っているとき、つい弱みを見せてしまうの。相手が気にかけてくれて、大切にしてくれるって分かっているから。でも、相手が自分を愛していないと分かっているなら、あなたの弱点は、相手を引き止めるための取引材料みたいなものになってしまう。」

寺田通は胸が痛み、瞬時に何かを理解した。

小山千恵子のような強い人が、浅野社長と長い間一緒にいて、感情面では常に浅野社長と対等だった。桜井美月が現れるまでは。

藤原晴子は寺田通の表情を見て、彼が理解したことを察した。

「だから千恵子は浅野武樹にこのことを話したくないの。話したところで何になるの?そう、浅野武樹は彼女を哀れに思って、愛し続けるかもしれない。でもそれは彼女を死なせるより辛いことよ。」

寺田通は口を開いたが、声は乾いていた。「でも浅野社長にも、知る権利が...」

藤原晴子は冷笑した。「彼に何の権利があるの?離婚協議書にはもう署名したでしょう。離婚証明書を受け取ったら、ただの元夫よ。その立場で小山千恵子のことを心配する権利があると思う?」

寺田通は喉に魚の骨が刺さったような感覚で、藤原晴子の言葉は浅野武樹が知る正当性をすべて否定しているようだった。

藤原晴子は広い運転席に後ろもたれて、開き直ったような表情を見せた。