第292章 私と桜井美月は結婚していない

小山千恵子は深いため息をつき、額に手を当てた。

これは確かに浅野武樹がやりそうなことだった。

浅野武樹が鍵を取り出し、ドアを開けようとしながら、笑みを含んだ声で尋ねた。「中を見て行かない?」

小山千恵子は目を回して閉めようとしたが……

浅野武樹がこんなボロアパートにどうやって住むのか、とても気になった!

歯を食いしばってドアを閉め、小山千恵子の小柄な影が一瞬で浅野武樹の前を通り抜けて中に入った。

部屋の中には年代物の無垢材の家具があり、かすかな白檀の香りが漂っていた。

家は古かったが、採光も良く、風通しも良好で、全体的にシンプルで温かみのある雰囲気だった。

浅野武樹が上着を脱いで古風なコートハンガーに掛けると、小山千恵子がその後に続き、部屋の中から声が聞こえてきた。

「健一郎、健一郎坊ちゃん。ここに来てからずっと黙って泣いてばかりで、食事も排泄も何もしないなんて、一体どうするつもりなの?」

寺田通が懇々と諭す声が聞こえてきて、小山千恵子は思わず笑みがこぼれそうになった。

「あなたは私の坊ちゃんですから、よく話し合いましょう。もう泣かないで。お父さんが帰ってきたら、私があなたをいじめたと思われちゃいますよ……」

浅野武樹は困り果てた表情で、ドアノブを回すとキーッという音がした。

寺田通は床に胡座をかいて座り、きちんとしたスーツはくしゃくしゃで、髪の毛も乱れていた。

子供の面倒を見ているというより、まるで大型動物と格闘でもしたかのような有様だった。

寺田通が顔を上げると、浅野武樹と小山千恵子を見て、目を輝かせた。

ついに救世主が来た!

「浅野社長、お帰りなので私は先に失礼します。田島さんは買い物に行っていて、すぐ戻ってきます。」

浅野武樹の表情は相変わらず無表情だったが、柔らかな様子で「待って」と言った。

寺田通はびっくりして、責任を取らされると思い「子供が泣き止まない理由が分からなくて……」

浅野武樹はため息をつきながら遮った。「そのことじゃない。髪と服を整えて、それと周りの警備をしっかり配置して、この場所は当分の間、表に出さないように。」

寺田通は真剣な表情で「承知しました、浅野社長」

彼は小山千恵子とすれ違う際にウインクをして、ドア口から姿を消した。