第316章 もう戻れない

小山千恵子は足を緩め、突然口を開くのが怖くなった。

浅野武樹がここに現れたということは、モリ先生の入院治療が終わったことを意味していた。

人混みの中に立つ男は、いつもの冷静さとは違い、少し緊張しているようだった。

彼は本革の手袋をはめ、袖口を整えているようだった。

小山千恵子の心が揺れた。

浅野武樹は緊張すると、無意識に袖口を整える癖があった。

そして、その手袋は彼女と浅野武樹がフランスで新婚旅行をした時に、古城の主人から手に入れた骨董品で、重要な場面でしか浅野武樹は着用しなかった。

すべての細部が、小山千恵子が考えたくない答えを指し示していた。

しかし、ショーが迫っており、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

小山千恵子は数歩前に進み、躊躇いながら声をかけた。「浅野武樹?」

男の姿が一瞬固まり、真っ直ぐな背筋が少し硬くなった。

彼はコートの存在しないシワを撫で、少し戸惑いながら振り返った。

小山千恵子は浅野武樹の見慣れた、墨のような深い瞳を見た。

ここ数日の疲れのせいか、彼女は全力を尽くしてようやく湧き上がる感情を抑えることができた。

浅野武樹の目にも、彼女には理解できない複雑な感情が満ちていた。

しかし一目見ただけで、彼女の心は強く握りしめられたかのように、息ができなくなった。

浅野武樹は喉仏を動かし、手を伸ばしかけたが、言葉が喉まで出かかっても口に出せなかった。

小山千恵子は目の熱さを押さえ込み、明るく振る舞おうとして口を開いた。

「浅野社長、会場に行きましょう。」

浅野武樹は一瞬目を揺らし、歯を食いしばって、車のドアに手をかけようとする小山千恵子の手を掴んだ。

朝のホテル入り口は人々の声で賑わっていたが、小山千恵子の世界は一瞬にして静かになった。

彼女は木の香りが漂う抱擁に優しく包まれ、耳元では浅野武樹の太鼓のような心臓の鼓動が聞こえた。

その心臓は胸から飛び出しそうなほど激しく打っており、小山千恵子は目を閉じて、自分の心臓も耳をつんざくほど激しく打っているのを感じた。

浅野武樹の掠れた声が頭上から響き、小山千恵子は彼の逞しい胸から発せられる共鳴を聞き取ることができた。

「千恵子、ただいま。」

淡々とした一言だったが、小山千恵子の心に重く響いた。

この言葉を、彼女はもう何年も聞いていなかった。