喜びの日が、悲しみの日に

湯気の立ち込める浴室から、シャワーを浴びている結城暁(ゆうき あきら)の気配がする。

南雲泉(なぐも いずみ)は布団の中で身を起こした。昨夜のあれこれを思い出し、頬が火照るのを感じていた。

もう夫婦だというのに、甘い時間の後はいつも、たまらなく恥ずかしい気持ちになるのだ。

やがて水音が止み、暁がバスタオル一枚の姿で出てきた。

泉は彼の服を手渡す。「朝食、できてるわ。下で待ってますね」

「ああ」

階下へ降りると、泉は冷蔵庫からそっとケーキを取り出し、ダイニングテーブルの真ん中に置いた。

手の中には、一枚の妊娠検査薬の結果。緊張で心臓がドキドキと高鳴っていた。

今日は、二人の結婚2周年の記念日。妊娠のことを彼に伝えようと思うと、緊張と期待で胸がいっぱいだった。

ほどなくして結城暁が着替えを済ませて降りてきた。オーダーメイドの黒のスーツが、彼の端正な顔立ちと洗練された雰囲気を一層引き立てている。まるで、絵画から抜け出してきたかのようだ。

朝食が終わり、南雲泉は手の中の検査結果を握る手に力を込め、深呼吸してから、緊張した面持ちで口を開いた。「暁、あの……話したいことがあるんの」

「ちょうどいい。俺からも話がある」

「……じゃあ、先にどうぞ」

暁は立ち上がり、引き出しから書類を取り出すと、その細長い指で、ゆっくりと泉に差し出した。

「離婚届だ。時間のある時に目を通しておいてくれ」

不意打ちだった。泉は、その場で崩れ落ちないようにするので精一杯だった。

息を吸い込むと、冷たい空気がまるでナイフのように喉を切り裂く痛みが走った。

離婚届……?

頭の中が真っ白になる。しばらくして、ようやく声を取り戻した泉は、茫然と問いかけた。

「……私と、離婚、するの?」

「ああ」

彼の声は、ひどく軽く、浅かった。

泉は妊娠検査書を握りしめたまま、問いかけようとした言葉を呑み込んだ。――もう、やり直す余地はないの?

もし、私たちに赤ちゃんがいたら……?

少しは、考え直してくれたりしないかしら?

だが、彼女が口を開く前に、彼の声が響いた。「清華(せいか)が帰ってきた。だから、この結婚を予定より早く終わらせたい。当初の約束は3年だったが、状況が変わった。1年早めることにする。

「急な話だとは分かっている。これは草案だ。目を通して、何か要求があれば言ってくれ。法外なものでなければ、応じよう」

「……わかったわ。後で、見る」泉は、まるで心が空っぽになったかのように答えた。

背中に回した手の中で、妊娠検査書の紙が、じっとりと滲む汗で湿っていくのを感じた。

もう、これを取り出す必要はないのだ、と悟った。

「それから、もう一つ頼みがあるんだが」と結城暁が言った。

南雲泉は両手に爪が食い込むほど力を込め、懸命に顔を上げて微笑んでみせた。「ええ、何でしょう。私にできることなら」

「離婚の件なんだが、お爺様に話してくれないか。俺からだと、納得してもらえないだろう」

「……はい、わかりました」

泉は元々、ごく普通の家庭の娘だった。看護師の母と、ギャンブル好きの父。

そんな家柄では、結城家のような名家には到底釣り合わない。

すべてのきっかけは、数年前、暁の祖父と父が商売敵の策略にはまり事故に遭ったことだった。その事故で二人の心臓発作を誘発したことだった。

偶然通りかかった泉の母が、その場で懸命な救護にあたったのだ。

それから長い年月が経ち、母が癌で亡くなる間際、ギャンブル癖のある父と一緒に暮らすことを案じ、一人娘の泉を託すため、久しぶりに結城家に連絡を取った。

それを聞いた結城家の大旦那、結城お爺様が直接采配を振り、泉が大学を卒業すると同時に、結城暁との結婚が決まったのだった。

その時、暁は言った。「君と結婚はする。だが、俺には心に決めた人がいる。この結婚は3年間の契約だ。3年後、君からお爺様に離婚を申し出てくれ。それで円満に別れよう」

泉は込み上げる切なさを必死に堪え、彼への愛しい気持ちをすべて覆い隠した。

そして、努めて平静を装い、こう答えたのだった。「ええ、わかっています。私にも、心に決めた人がいますから。契約期間が終われば、約束通り、私から身を引きます」

結婚してから、彼は夫としての責任はすべて果たしてくれた。

彼女を愛し、甘やかし、守ってくれた。

周囲の友人たちは誰もが、泉を結城暁の最愛の人、掌中の珠のように思っていた。彼女を不機嫌にさせようものなら、天国から地獄へ真っ逆さま。誰もが、泉が良い夫、素晴らしい伴侶を得たと羨んだ。

だが、南雲泉だけは知っていた。この結婚が愛に基づいたものではなく、ただの契約に過ぎないということを。

彼が与えてくれた優しさのすべてに、愛はなかった。それはただ、夫としての義務を遂行しているだけ。もしそこに愛があったとすれば、それは彼女の身体に対してだけ――まるで何かに取り憑かれたかのように、彼は泉の身体を溺愛した。

本来の約束は3年。しかし今、彼が心の奥底で大切にしてきた女性が帰ってきた。泉がその座を譲る時が来たのだ。

泉は身をかがめ、テーブルの上の「離婚届」と書かれた書類を手に取った。

もう食欲など、どこにもなかった。部屋に戻ろうとした、その時。暁が、どこか苛立たしげにネクタイを緩めながら、彼女を呼び止めた。

「離婚を切り出す時、お爺様はきっと理由を尋ねるだろう。結婚する前に、君には長年想いを寄せている人がいると言っていたな?俺が君を自由にするんだ。ちょうどいい機会じゃないか。彼を探し出して、自分の幸せを追い求めると。そう説明すれば、お爺様も反対しにくいだろう」

泉は頷いた。「……はい。お爺様には、そう伝えます」

そう言うと、泉は一刻も早くその場を離れたかった。これ以上ここにいたら、きっと後悔してしまう。言ってはいけない言葉を口にしてしまいそうで。「暁、離婚なんて、ほんとにしたくないの」と。

ふいに暁が手を伸ばしてきた。泉は手の中のものを彼に見られまいと、咄嗟に身を引いた。

暁はますます心配そうな顔になり、なおも泉の手を取ろうとする。「顔色が悪いぞ?どこか具合でも悪いのか?」

「ううん、なんでもないです」泉は慌てて彼の手を振り払った。

「2年も夫婦でいて、嘘をついているのが分からないとでも?」暁の目が深く光る。

泉はついに観念した。「……たいしたことないの。ただ、その……月のものが来ましただけ」

「なら、ゆっくり休め」

言いながら、暁はふと、彼女が強く握りしめている右手に気づいた。「それは何だ?​そんなに強く握って」

泉はまるで熱い芋でも触ったかのように、それを咄嗟に近くのゴミ箱に投げ捨てた。そして、無理に笑顔を作ってみせる。「なんでもないですわ。ゴミよ。ずっと持ってたのに、捨てるのを忘れてしまいましただけ」

結城暁には決して分からないだろう。泉の心が、今、どれほど激しく痛んでいるかなんて。

まるで鋭い斧で、心臓を生々しく真っ二つに引き裂かれたかのようだ。鮮血が滴り落ち、肉はぐちゃぐちゃに潰れている。

まだ血を流し続ける心の破片を抱えながら、彼女は死ぬほどの苦痛に耐えていた。

「暁……暁さん……」泉は心の中で、何度も彼の名を呟いた。「どうして……?あんなに仲の良かった夫婦なのに、こんなにあっけなく終わりにするなんて……」

彼と結婚すると決めた時、それはほとんど、一か八かの大きな賭けだった。

なのに、今こうして迎える別れは、あまりにもみすぼらしく、そして寂しかった。

「泉、馬鹿な子ね。あなたは結局、賭けに負けたのよ。彼はあなたを愛してなんかいなかった。ほんの少しだって、ね」

彼女の身体が弱々しくふらつくのを見て、暁は考える間もなく、ひょいと彼女を横抱きにした。

泉は一瞬、状況が呑み込めず呆然としたが、すぐに慌てて言った。「きゃっ……!下ろしてください、自分で戻れますから……」

「こんなにふらついてるくせに、強がるな」

優しく、誘惑的で、それでいて低い結城暁の声が、すぐ耳元で響く。

この声に、彼女は丸2年間、ずっと聞き惚れ、溺れてきたのだ。それなのに今、彼は突然、その腕の中から彼女を突き放そうとしている。

泉は瞬きを繰り返したが、とうとう涙を堪えきれなくなった。

暁は、そんな彼女を見て可笑しそうに笑う。「子供じゃないんだから。生理痛くらいで泣くなよ。ほら、泣き止んで。後で医者を呼んでやるから」

「泣いていませんわ」泉は意地を張って言い返した。

この鈍感男。馬鹿。豚!

彼には、私が何故泣いているのか、まったく分かっていないのだ。

「はいはい、泣いてない、泣いてない」暁はあっさりと言葉を引いた。

「なあ、教えてくれないか。その男っていうのは、誰なんだ?」突然、彼は脈絡のない質問を投げかけた。

泉は何のことか分からず、聞き返す。「……彼?」

「結婚する前に言ってたじゃないか。長年、愛している男がいるって。一体誰がそんな幸運な男なのか、少し気になってね。君にそんなに長く想い続けられるなんて」