雲居詩織の立て続けの問いに、結城暁は苛立ちを隠せなかった。
ネクタイを少し緩めながら、彼は淡々と言った。「母さん、泉は落ち着いていますよ。事は母さんが言うほど深刻じゃありません」
「深刻じゃないですって?」
詩織は努めて冷静さを保とうとし、再び暁に向き直った。「この件は、まだお爺様はご存じないわ。もしあの方の耳に入ったら……皮一枚剥がされるくらいでは済まないでしょうね。せいぜい気をつけることね。
「それから、腹の内くらいお見通しよ。隠したいなら、徹底的におやりなさい。お爺様は最近お身体の具合が優れず、以前とは比べものにならないほど弱っていらっしゃる。もしあの方が何か異変に気づいて、万が一のことがあったら……。実の息子であろうと、容赦しないから。
「それに、泉に離婚を切り出させれば、私たちが承諾するとでも思っているなら大間違いよ。そんな考えは、さっさと捨てることね。あなたは私の息子よ。腹の中くらい、お見通しだわ。
「藤宮清華という女は、思うほど単純じゃないわよ。あの時、きっぱりと去っていったかと思えば、2年後にまたのこのこと戻ってくるなんて。どんな魂胆があってのことか、わかっているの?」
暁は水を飲んでふりをしているが、その心中は嵐が吹き荒れていた。
これらの事を、なぜ母は何もかも知っているのだろうか?
帰路の車中、暁は一言も発さず、近寄りがたい雰囲気を全身から放っていた。
前席の運転手でさえ、息を殺し、細心の注意を払っている。
「南雲泉」家に帰り着くなり、暁は彼女の名前を直接呼んだ。その全身には、抑えた怒りの気配が漂っている。
「どこだ?」
言い終わるや否や、ソファにいる泉の姿が目に入った。
彼が近づいた時、ちょうど泉は目を覚ました。
彼が帰ってきたのを見て、泉はすぐに目をこすり、眠たげな声で口を開いた。「おかえりなさい……。そうだ、伝えたいことがあるの。お義母様、私たちが離婚すること、知ってしまったみたい」
「お前が教えたんじゃないのか?」暁は怒りを込めて問い詰めた。
泉は彼の問いに、やや呆然とした。
しばらくして、ようやく事態を飲み込み、信じられないというように目の前の男を見上げた。「……どういう意味?私が、離婚の話をお義母様に漏らしたとでも言いたいの?」
「違うと?」
「もちろん違うわ!」
暁は冷笑し、その深い瞳は鋭く、氷のように冷たくなった。
その冷たさは泉の心臓に突き刺さり、刃物で抉られるよりも痛かった。「この件は、お前にしか話していない。お前以外に誰がいるというんだ?もし離婚したくないなら、そう言えばいい。なぜそんな小細工をする?償いはお前の言い値で構わないと言ったはずだ。要求通りの埋め合わせをする。たとえ財産分与で折半することになっても、私は構わない」
一瞬、泉は息をするのも忘れたかのように感じ、頭の中が真っ白になった。
唇を開こうとしたが、突然、一言も発することができないことに気づいた。
彼にこんな風に誤解されて、心が、あまりにも痛い。
「……これで言葉もないというわけか?」
暁の軽蔑するような口調が、彼女の胸をさらに激しく締め付けた。
長い沈黙の後、彼女はようやく感情を整えた。「つまり……私がこれだけのことをしたのは、お金のため、財産のためだと?」
「でなければ?」暁は冷ややかに彼女を見つめた。「それとも、そもそも離婚する気などなく、表向きは同意しておきながら、裏では母さんやお爺様に告げ口をする。南雲泉、お前は本当に見事な手際だ。私でさえ、思わず手を叩いて感心するほどだよ」
「……そんな風に、思っていたの?」
自嘲気味に笑い、泉は睫毛を伏せた。
もういい、疲れた。
もう説明する気もない。
自分のために弁解する気も失せた。
どうせ、お爺様の傘寿のお祝いが終われば、私たちは離婚するのだ。その後は、もう赤の他人。二度と関わることもない。
「これまでの振る舞いを見て、どう考えろと?」
「……じゃあ、聞くけど。どうして、結婚を?あの時、どういう理由で?」
理由はもう知っていたけれど、泉はまるで狂ってしまったかのように、それでも頑なに答えを求めていた。
彼に話してほしかった。彼の口から、直接、聞きたかったのだ。
暁の沈黙が、泉をさらに苦しめた。「どうして言わないの?言ってよ!
「あなたはあの時、はっきりと『自発的』だと言ったわよね!なんて素晴らしい『自発的』かしら!元カノのために、自分の結婚を犠牲にすることを『自発的』に選び、自分自身を囮にして、私を罠に嵌めることを?結城暁、その『自発的』なやり方、本当に感服するわ!まったく、恐れ入るわね!
「言ってよ!」泉は抑えきれずに叫んだ。
長い、沈黙。
二人の間の空気は、息が詰まるほどに張り詰めていた。
泉は息を吸ったが、その空気さえも痛みを伴うように感じられた。まるで喉に刃物が突き刺さるかのようだ。
「……どうして、弁解しないの?」泉は悲愴な笑みを浮かべた。
「……だって、弁解しようがないからでしょうね」
彼女は自問自答し、心臓に大きな穴が穿たれたように感じた。そこから、だらだらと血が流れ出しているかのようだった。
「……すまない」
最後の最後に、彼女が待つことができたのは、この謝るだけだった。
「はは……『すまない』、ですって!」泉は喃語のように繰り返し、涙が溢れ出そうなほど笑った。
なんて素晴らしい「すまない」だろう。
この言葉は、本当に万能だ。
まるで、どんなことをしても、どんな過ちを犯しても、この言葉で全てが済んでしまうかのようだ。
苦しい。
痛くて、苦しくて、たまらない。
特に下腹部が、誰かに強く引っ張られているかのように、痙攣するような痛みに襲われた。
すぐに、下着がじっとりと濡れて、粘つくのを感じた。
何かに思い至り、泉の顔色は瞬く間に血の気を失い、真っ白になった。
もし、この感覚が間違いでなければ……出血している。しかも、少なくない量だ。
「ママを怖がらせないで……。お願いだから、無事でいて……!
「お願い、何もないで。絶対に、何事もないで。
「ごめんなさい……ママが、守ってあげられなかった……!」
泉は心の中で、自分を激しく責め立てた。
彼女の異常な顔色の悪さを見て、暁は慌てて声をかけた。「どうしたんだ?顔色がひどく悪い。病院に連れて行く」
「偽善なんて、いらないわ!」
泉は突然手を伸ばし、彼の手を荒々しく振り払った。
下腹部の痛みは、ますます激しくなっていく。
そして、まだ出血が続いているように感じられた。
妊娠初期の3ヶ月は最も不安定で、流産しやすいと聞く。
そう考えた途端、泉はすぐに後悔した。
彼に対する怒りはあったけれど、今は赤ちゃんが一番大切なのだ。赤ちゃんのことで、彼と意地を張るべきではなかった。
唇を震わせ、泉は懸命に口を開き、何かを言おうとした。
突然、目の前が真っ暗になり、彼女の体は何の前触れもなく、後ろへ倒れ込んだ。
「泉!」
幸い、暁の反応は素早く、彼は即座に彼女の体を受け止めた。
「泉、しっかりしろ!」
暁は彼女を抱きかかえ、階下へ急ぎながら、車の準備を命じた。
泉が目を覚ました時、車はちょうど病院に着いたところだった。暁が彼女を抱き上げ、救急処置室へと駆け込んでいく。
彼の顔には焦りの色が満ちており、あまりに急いで走ったためか、顔には細かな汗が滲んでいた。いつものような端正で優雅な様子は微塵もなく、むしろ少し、なりふり構わず取り乱した姿に見えた。
もし……もし、本当に私のことを心配してくれているのなら、どんなにいいだろう。
残念ながら、きっとこれは、罪悪感から来るものなのだろうけれど。
救急処置室に着くと、頭上の眩しいライトがカッと照らされた。泉は目を閉じなかった。目を大きく見開き、涙が頬を伝って、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
医師が入ってきた。泉はその手を掴み、泣きながら懇願した。「……妊娠、してるんです。お願いです、私の、赤ちゃんを、助けてください……」
彼女の下から流れ出る鮮血の量を見て、医師は苦渋の表情で口を開いた。「……最善は尽くします。ですが……覚悟はしておいてください。助かる可能性は、非常に低いです」