何度もえずき、南雲泉はようやく少し楽になった。
ふぅ、と息をつき、顔を洗って身だしなみを整えてから、彼女は部屋を出た。
「お義母様、お見苦しいところを……。さきほどは少し取り乱してしまって」
ソファに腰かけている雲居詩織を見て、泉は大変申し訳なさそうな様子だ。
詩織はただ微笑んで、「大丈夫よ」とだけ言った。
そして手招きして隣に座るよう促すと、泉はすぐさま遠慮がちにその隣へ腰を下ろした。
緊張からか、心臓がドキドキと早鐘のように打ち、呼吸すら少し乱れがちだった。だが、それよりも何よりも、義母に「嘔吐」のことを尋ねられるのが怖かったのだ。
しかし、こういう時に限って、物事はそう上手くいくものではない。
次の瞬間、義母の声が耳元で響いた。「さっきはどうしたの?ずいぶん辛そうに吐いていたけれど。病院で診てもらった方がいいんじゃないかしら?」
まあ!泉は心の中で叫んだ。本当に、恐れていたことが現実になるなんて。
「いえ、お義母様、大丈夫です。うっかり卵を食べてしまって……ここ二、三日、少しアレルギーが出ていて」
泉は、声も口調もできる限り自然に聞こえるよう、努めて平静を装った。
「今度は気をつけるのよ。アレルギーは軽く見てはいけないのだから」詩織は真剣な面持ちで言い聞かせたが、特に深くは考えていないようだった。
「はい、お義母様。これからは気をつけます」
続けて、詩織は遠回しな言い方はせず、単刀直入に切り出した。
「私の記憶違いでなければ、昨日は、結婚2周年の記念日だったわね」
「はい……!」泉はおとなしく頷いた。
「人というものはね、一生のうちに様々な人と出会うものよ。ある人とは、一生出会うことすらない。またある人とは、ただすれ違うだけのご縁。夫婦になれるというのは、簡単なことではないの。あなたたちが籍を入れて夫婦となった以上は、その縁を大切にしなければならないわ。
「『夫婦の縁は容易に壊すべからず』と言うでしょう。まだ愛しているのなら、心を砕いて、しっかりと繋ぎ止めなさい。藤宮清華のことなんて、何を恐れる必要があるの?私だけでなく、結城家は皆、お爺様もお義父様も、誰も彼女のことなんか好きじゃないし、誰もあの子が家の敷居を跨ぐことには同意しないわ。私たちは、あなたの最も頼もしい味方なのよ」
詩織の言葉に、泉は目頭が熱くなるのを感じた。
実母はもう何年も前に亡くなり、実父からは一片の父性愛も与えられなかった。それでも、自分はどれほど幸運だったことか。結城家に嫁ぐことができたのだから。
彼らは泉を見下すどころか、むしろ大切にし、甘やかし、守り、愛してくれた。
このご恩は、一生かかっても返しきれない。
「お義母様、わかっています。大切にします」
「本当にわかっているのかしら?」詩織はふと泉を見つめ、その眼差しは鋭さを増した。「わかっているようには見えないわね。本当にわかっていたら、そう簡単に離婚なんて言い出さないでしょう?
「あなたと暁がどんな魂胆なのか、私が知らないとでも思っているの?お爺様はもうすぐ傘寿を迎えるのよ。あの方はご病気がちでいらっしゃるの。もし、あなたたちが何か事を起こしてあの方を怒らせるようなことがあれば、この私は絶対に許さないから。どんな考えも捨てて、奥歯で噛み砕いて飲み込みなさい」
泉ははっと顔を上げ、信じられないというように義母を見つめた。「お義母様、どうして……ご存じなのですか?」
最後のほうは、泉の声は蚊の鳴くようにか細くなっていた。
俯いてしまい、とても義母の顔を見ることができなかった。
詩織はため息を一つついた。「暁がどんな理由であなたを娶ったのかは、もう重要ではないわ。娶って、婚姻届を出した以上、あなたたちは夫婦なのよ。夫婦であるからには、大切にし合わなければ。私はね、あなたたちが早く孫の顔を見せてくれて、私も鼻が高い思いができるのを心待ちにしているのよ」
帰る前に、詩織はもう一度言い含めた。「余計なことは考えずに、ちゃんと暮らしなさい。次に会う時までには、そんな考えは改めてくれることを願っているわ」
そう言うと、彼女は食事も摂らずに、そのまま帰って行った。
泉はソファに座ったまま、しばらく逡巡していた。結城暁に電話をかけるべきかどうか。
お義母様が、自分たちの離婚計画を知ってしまったことを、彼に伝えるべきか。
あれこれと思い悩むうちに、どうしようもない眠気に襲われ、泉はそのままソファで眠りに落ちてしまった。
泉の家を出るとすぐ、詩織は暁に電話をかけた。「半時間後に本家に着きます。今すぐ、そこに待ちなさい」
暁は少し頭が痛むのを感じた。「母さん、まだ外なんですけど」
詩織はぴしゃりと言い返した。「わかっているわよ。ご自分の奥さんを放って、藤宮清華とショッピングを楽しんでいるんでしょう。もしあなたが来ないなら、私は直接ショッピングモールに行って藤宮清華に会うわ。その時にあの子がまた恥をかくことになっても、手加減はしないから。自分で決めなさい!」
「……行きます」
暁が言い終わるか終わらないかのうちに、詩織は有無を言わせぬ勢いで電話を切った。
「清華、悪いけど先に見ていてくれないか。終わったら、運転手に送らせるから」暁は優しく言った。
藤宮清華はすぐに何かがおかしいと感じ取った。「暁、もう行っちゃうの?」
「ああ、少し急用ができたんだ」
「そう……。じゃあ、先に行って。私は大丈夫だから、心配しないで」
「うん」
暁が背を向けようとした時、清華が突然呼び止めた。「待って!」
「どうしたんだい?」
清華は車椅子を滑らせて近づき、両手を伸ばすと、その繊細な指先で暁の襟元のネクタイを丁寧に直した。
「……よし、ネクタイ、少し曲がってたから」
「ありがとう」
暁の後ろ姿を見送りながら、満里子が少し不満そうに呟いた。「お嬢様、どうして結城社長を引き止めなかったんですか?このまま行かせてしまって……」
「だって、今日の彼が私に一つの戒めを与えてくれたからよ」
「戒め、ですか?」
「一昨日、私たちは離婚延期のことで言い争って、彼はとても不機嫌だったわ。今日もまたその件で……。今は少し距離を置いて、彼をもっと信じてあげるべきなの。あまり追い詰めすぎると、かえって逆効果になってしまうかもしれないから」
「お嬢様、でも、彼があの奥さんのことを好きになってしまったらどうするんですか?」
清華の眼差しに複雑な色が浮かんだ。
しばらくして、彼女はようやく口を開いた。「もちろん、怖いわ」
「でもね、自分に言い聞かせているの。2年も結婚していて、暁さんは彼女を愛さなかった。あとたった7日間よ。この七日間で急に気持ちが進展するなんてこと、あるかしら?
「私は海外で丸2年、700日以上も耐えてきたのよ。このたった7日間のために、今までの苦労を水の泡にするわけにはいかない。冷静でいなければ。絶対に、自ら足元を乱すようなことはしてはだめなの」
暁が結城家の本家に戻った時、詩織はすでに書斎で彼を待っていた。
午後5時頃、太陽はもう沈みかけている。
オレンジ色の夕焼けが空を染め、窓の外にはちょうど夕日が沈む美しい景色が広がっていた。それは詩織が最も愛する時間帯だった。
古風で趣のある部屋には、淡いお香の香りが漂っている。
傍らの茶卓からは、芳醇な茶の香りが立ち上り、清々しく鼻をくすぐった。
暁が扉を開けて入ると、詩織はちょうどお茶を淹れ終えたところだった。
彼はスマートな足取りで進み、自ら茶卓の向かいに腰を下ろすと、手元の湯呑みを持ち上げて香りをかいだ。「母さんの淹れるお茶は、やはり格別な香りですね」
「香りが良くて何になるの?お父様は結局、夏目優和(なつめ ゆわ)さんの淹れたお茶がお好きだったじゃない。『彼女の淹れるお茶はロマンチックで趣があり、風流だ』ですって。私のお茶は、私自身と同じで単調で面白みがない、とね」
「母さん」暁は眉をひそめた。「わざわざ、どうして彼女の話を持ち出すんですか?」
「あら、どうしてかしら?お父様の昔の女のことは口にするな、と言うくせに、あなたの方はご自分の愛人を連れて、見せびらかすように街を歩き回ってもいいというわけ?結城暁、あなた、本当にたいしたもんだわ。
「泉の気持ちを考えたことがあるの?鉄でできているとでも?傷つかないとでも思っているの?」