「蓮さん……。今日、私たちの3周年記念日、ですよね。これ、プレゼント……」藤丸詩織(ふじまる しおり)は、何ヶ月もかけて手作りした贈り物をそっと差し出し、長身で端正な顔立ちの夫、桜井蓮(さくらい れん)の前に立った。期待と不安がないまぜになった心持ちで、おずおずと視線を上げかけたが、すぐに伏せてしまう。耳がほんのりと赤く染まっているのが、自分でもわかった。
控えめながらも上質さを感じさせるギフトボックスの中には、一本のネクタイが収められていた。深い地色に、縦横の糸が繊細な模様を織りなしている。
桜井蓮はそれに一瞥をくれただけで、すぐに興味を失ったように視線を逸らすと、棘のある声で言い放った。「……趣味が悪いな。こんなネクタイ、気に入るわけがないだろう」
その言葉が響いた瞬間、藤丸詩織の頬を染めていた赤みは一瞬で消え去り、顔は蒼白になった。無意識に指先をこすり合わせると、ネクタイ作りの際に針で傷つけた箇所に触れてしまう。チクリ、とした痛みが全身に広がるようで、それがわずかな覚醒をもたらした。ぐっと下唇を噛みしめ、涙がこぼれ落ちるのを必死で堪える。
ふと、桜井蓮が今締めているネクタイが、自分が贈ったものと同じタイプのデザインであることに気づく。まるで救いの藁にでもすがるかのように、藤丸詩織は慌てて言葉を継いだ。「で、でも、いつもこういうタイプのネクタイを……。お好き、なんだと思って……」
桜井蓮は少しも動じない。むしろ、その磁性を帯びた美しい声で、藤丸詩織を奈落の底へ突き落とすような言葉を紡いだ。「ああ、確かに『以前は』好きだった。だが、君がこれを贈ってきた、まさにこの瞬間から、嫌いになった。わかるか?君という存在が関わっただけで、どんな物でもひどく不快になるんだ。……だから、このタイプのネクタイも、もう二度と使わない」
そう言いながら、彼は今締めているネクタイを乱暴に引きちぎると、床へと容赦なく叩きつけた。
堰を切ったように涙が溢れ出し、藤丸詩織の体はわなわなと震え始める。手にしたギフトボックスを支えきれず、がしゃん、と大きな音を立てて床に落ちた。
その涙を見て、桜井蓮は嫌悪感を隠しもせずに眉をひそめる。「……泣くことしか能がないのか。鬱陶しい。またこれで祖父に泣きつくつもりか?あの方を喜ばせるためでなければ、誰がお前のような女と結婚などするか。3年前、祖父を助けたという話だって、どうせお前の仕組んだことだろう?俺に取り入るためだけのな。……まったく、どこまで計算高い女なんだ?」
「ち、違います……私、そんな……」力なく呟く藤丸詩織の声は、桜井蓮の耳にはただの耳障りな騒音としてしか届かないようだ。
桜井蓮の表情は冷たく、嘲りに満ちている。「プレゼント、だと?ふん、そんな見え透いた口実で、本当は何が欲しいか、俺が知らないとでも思ったか」
次の瞬間、藤丸詩織は抵抗する間もなく、桜井蓮の腕の中へと乱暴に引き寄せられた。
周囲の空気は、まるで熱を帯びたように感じられるのに、藤丸詩織の体は芯から凍えるように冷たい。何の愛撫もなく、ただ一方的に、力ずくで事が始まる。引き裂かれるような痛みが全身を襲い、どれだけ懇願しても男は動きを止めようとはしない。詩織はただ、蒼白な顔で歯を食いしばり、額に浮かんだ冷や汗がこめかみを伝うのを感じるしかなかった。
その時、特別な着信音が鳴り響いた。
藤丸詩織の体の上で、蓮の動きがぴたりと止まる。そして、何の躊躇いもなく身を引くと、彼は電話に出た。「もしもし、月奈?どうしたんだ、急に。何かあったのか?」
電話口の相手に対する彼の声は、驚くほど優しい。詩織に向ける冷徹さとは、まるで別人のようだ。
藤丸詩織は手のひらで顔を覆い、泣き声を漏らした。心臓を針で抉られるような痛みが走る。電話の相手が水野月奈(みずの つきな)であることは、聞かずともわかっていた。彼女は、桜井蓮が心の奥底に秘める女性であり、この3年間、詩織と蓮の間に影のように存在し続ける、決して消えることのない存在なのだ。
いつだってそうだ。どんな時であろうと、どこにいようと、何をしていても、水野月奈からの電話があれば、桜井蓮は全てを中断する。たとえ、こうして詩織と肌を重ねている最中であっても……例外はない。
桜井蓮は、水野月奈との電話を藤丸詩織の前で隠そうともしない。あるいは、わざと見せつけているのかもしれない。そして電話の終わりには、必ず水野月奈に約束の言葉を口にする。今回も、やはり同じだった。「月奈、心配するな。必ず、藤丸詩織に離婚届を書かせる。……そしたら、君を迎えに行くから」
目を覆っていても、藤丸詩織にはわかる。その言葉を口にする時、桜井蓮の顔にはきっと、笑みが浮かんでいるのだろう。
電話が切れる。藤丸詩織に向き直った桜井蓮の声は、再び骨身に沁みるような冷たさを取り戻していた。苛立たしげに、彼は言い放つ。「離婚届はもう用意してある。さっさとサインしろ。……俺の最後の忍耐を、無駄にさせるなよ」
まるで壊れた人形のように力なく横たわりながらも、藤丸詩織はか細い声で、それでもはっきりと告げた。「……離婚、しません」
桜井蓮は冷ややかに鼻を鳴らすと、有無を言わせぬ口調で言い放った。「それは、お前が決めることではない!月奈が戻ってきたんだ。今から迎えに行く。……俺が帰ってくるまでに、サインが済んでいなかったら……どうなるか、覚悟しておくんだな!」
手早く身支度を整えた桜井蓮は、床に打ち捨てられたような藤丸詩織には一瞥もくれず、部屋を出ていこうとする。
その背中に、藤丸詩織ははっと我に返った。体の不快感を無理やり押し殺し、慌ててベッドから降りると、よろめくような小走りで桜井蓮の後を追い、必死にその腕に縋りついた。「蓮さん、待って、行かないで……!私、もっと、ちゃんと言うこと聞くから……。ううん、違う、どんな女の人が好きなの?教えてくれたら、私、そうなるから……!ねぇ、だから、離婚なんて言わないで、お願い、お願いだから……っ」
「……狂っているな、まるで」藤丸詩織のその痛々しい姿に、桜井蓮は侮蔑の色を浮かべ、もはや彼女に構うのも億劫だとばかりに身を引こうとする。
だが、ふと何か面白いことを思いついたかのように、彼は足を止めた。そして、ぞっとするほど優しい笑みを浮かべて藤丸詩織に歩み寄ると、不意に彼女の顎を強く掴んだ。憎悪を込めた声が、すぐ間近で響く。「……なあ。お前に死んでほしい、永遠に俺の前から消えてほしい、と望んだら……それも、お前は、できるのか?……できるわけない、だろうな」
藤丸詩織の返事を待つまでもなく、蓮は手を放し、今度こそ背を向けようとした。しかし、次の瞬間、彼は再び自分の腕が掴まれるのを感じた。耳元に、低く、けれど芯のある、不思議なほど穏やかな詩織の声が届く。「……それが、あなたの望みなら……喜んで」