桜井蓮の体がこわばり、その瞳の奥に冷たい光が宿った。藤丸詩織を見据え、一言一言、区切るように言い放つ。「藤丸詩織、わかるか?今のお前は……まるで媚びへつらう犬だ。そんな犬の命など、欲しくもない!」
言い終えると同時に、桜井蓮は腕にかかった藤丸詩織の手を、力任せに引き剥がし、乱暴に振り払った。
もともと体調が悪く、足元もおぼつかない藤丸詩織は、突然突き放されたことで体勢を崩し、まっすぐに壁際へと倒れこんでいった。
藤丸詩織が倒れるのを見て、桜井蓮は反射的に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
……ただ、転ぶだけだろう。それに、自分のために死んでもいいとまで言った女だ。転んだくらいで、どうなるというものでもない。
そもそも、鬱陶しく腕に絡みついてくるからだ。……いっそ、このまま植物人間にでもなればいい!
桜井蓮のそんな悪意に満ちた思考など、藤丸詩織は知る由もなかった。たとえ知っていたとしても、それどころではなかっただろう。
ゴンッ!鈍い音が響き、詩織は頭を壁の角に強く打ち付けた。
鮮血が流れ出し、視界を赤く染める。骨に響くような痛みとともに、まるで何かのスイッチが入ったかのように、脳裏に無数の記憶の断片が奔流となって押し寄せた。馴染み深く、それでいてどこか遠いそれらの光景は、瞬く間に、失われていた空白の部分を埋め尽くしていく。
藤丸詩織は手の甲で目の前の血を拭い、顔を上げた。その瞳は、何の感情も映さず、まっすぐに桜井蓮を見据えている。「桜井蓮。……離婚しましょう」
その顔は蒼白で力なく、髪や顔には血が滲んでいるというのに、その声には奇妙なほどの力が籠っていた。
藤丸詩織の射るような強い眼差しに、桜井蓮は思わず二、三歩後退り、自分が何をしたかに気づいて顔をこわばらせた。苦々しげに顔を歪め、吐き捨てるように言う。「……それが本心だといいがな。また何か、駆け引きでもするつもりじゃないだろうな!」
「駆け引き?」藤丸詩織は、まるで馬鹿げた冗談でも聞いたかのように、その言葉を面白そうに繰り返した。それから桜井蓮の頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように眺めやり、侮蔑を込めて言い放つ。「……あなたごときが?身の程を知りなさい」
桜井蓮は怒りに顔を引きつらせ、ギリ、と歯ぎしりをした。「……いいだろう。よく言ったな、藤丸詩織!」
彼は先ほど用意した離婚協議書を取り出し、藤丸詩織に向かって投げつけた。
藤丸詩織はひらりと手を伸ばし、宙を舞う書類を受け止めると、さっと目を通し——そして、びりびりと破り捨てた。
「なんだ、もう心変わりか?やはりただの駆け引きじゃないか。本当に、腹黒い女だ」藤丸詩織の行動を見て、桜井蓮は機関銃のように言葉をまくし立てた。
しかし、その言葉を聞いても、藤丸詩織は怒りを感じるどころか、ただ煩わしいだけだった。「信じられない……」
かつて掌中の珠として育てられ、莫大な財産を持つ自分が、記憶を失ったとはいえ、こんな男にこれほど辛抱強く、献身的に尽くしてきたなんて。他の女にうつつを抜かすこの男を、平然と許容してきたなんて……。
思い出したくもない過去だわ……。この3年間で、自分のプライドはズタズタにされたのだ!
「この離婚協議書では、全ての利益はあなたが独占し、私は慰謝料も財産分与もなし。完全に無一文で放り出される内容ですわね。少し前までの愚かな私なら、サインしたかもしれません。……でも、残念ね。今の私はもう、違う!」最後の言葉に、藤丸詩織はことさら力を込めた。
桜井蓮が何か言い返そうとするのを、藤丸詩織は許さない。間髪入れずに言葉を続ける。「離婚協議書を書き直しなさい。私が満足する内容になるまでね。少しは真剣に取り組んだ方がよろしいかと思いますわ?何しろ、今、離婚を急いでいるのは、私のほうではなくて、あなたのほうでしょう?」
「……やはり金目当ての女か。ようやく本性を現したな!」桜井蓮はふん、と鼻を鳴らし、目を伏せると、まるで施しを与えるかのような口調で言った。「資産を8億円くれてやれば、十分だろう?」
「8億円?」藤丸詩織は目を丸くし、信じられないというように桜井蓮を見つめた。
その様子を見て、桜井蓮は侮蔑的な笑みを浮かべ、傲慢に言い放つ。「……やはり、ろくな育ちではない女だな。たかが8億でそんなに興奮するとは、世間を知らないにも程がある」
藤丸詩織は、流れた髪を優雅に耳にかけると、すっと顎を上げ、冷ややかに蓮を見据えた。「いいえ?ただ、あまりの安さに驚いただけ。たったの8億円で……まるで物乞いに施しでもするつもり?」
かつては8億円という金額にも瞬き一つしなかった。そんな端金、気にも留めたことがなかったのだ。それを今、この桜井蓮という男は、自分を追い出すための手切れ金として提示している。藤丸詩織は、もはや笑うしかなかった。
「……俺が、ケチだと?」桜井蓮は目を剥いて藤丸詩織を睨みつけた。彼女がそんなことを言うとは信じられない、という表情だ。
藤丸詩織はその問いに少しも臆することなく、落ち着き払って答える。「ええ、私が申し上げましたわ。あらあら、桜井社長は、お若いのにもう耳が遠くなられたのかしら?そのうち、拡声器でも使わないと聞こえなくなるんじゃなくて?」
そして、畳み掛けるように言った。「それから、桜井社長に一つ、思い出させて差し上げましょうか。あなたに嫁いで、もう3年になるのですよ。3日でも3ヶ月でもなく、丸3年!それなのに妻がたかが8億円で驚くとしたら、それはむしろ、あなたの甲斐性がないということではありませんか?」
「まさか、外では羽振りのいい桜井社長が、家では妻にこれほどケチだと、世間に知られたいわけではないでしょう?」
桜井蓮は顔を青ざめさせ、ぐっと言葉に詰まった。
……そんなことが知られれば、会社の株価に響くのは間違いない。彼は、その事実を認めざるを得なかった。「……では、いくら欲しい?」