詩織は契約書に目を走らせることなく、紅い唇をわずかに開いて、数字を告げた。「160億よ」
それは蓮の予想を遥かに超える額だった。彼は思わず叫んだ。「……ふざけるな!強盗でもする気か!」
「あら?国内有数の桜井グループの社長ともあろう方が、まさか、たったの160億円も用意できない、なんてことはありませんわよね?」言いながら、藤丸詩織は再び桜井蓮を値踏みするように見つめる。その眼差しには、あからさまな軽蔑の色が濃くなっていく。
その視線に刺激され、蓮は反射的に言い返していた。「……出せないわけがないだろう!たかが160億ごときが!」
「あらまあ。桜井社長が、案外話が早くて驚きましたわ」藤丸詩織は少し意外そうな顔をしたが、その瞳にはわずかながら感心の光が宿ったように見えた。
彼女は部屋の中を見回すと、さらに言葉を続ける。「では、ついでにこの屋敷もいただきましょうか」
「藤丸詩織、図に乗るな!」桜井蓮は声を荒らげた。160億を要求した上に、この屋敷まで欲しがるとは、どこまで強欲な女なのだ。
藤丸詩織は桜井蓮を困らせるつもりはない、とでもいうように、どこか気だるげな口調で言った。「では、80億でこの屋敷を買い取りますわ」どうせ、いただくお金からですけれど。
この屋敷の価値は、せいぜい60億円程度だ。早く離婚してこの女から解放されるためなら、断る理由はない、と桜井蓮は判断した。「……いいだろう」
桜井蓮が承諾するのを見て、藤丸詩織はゆっくりと口を開いた。「私、潔癖症ですの。自分が住んだ場所に、後から他の誰か……特に、あの女が住むなんて考えただけで、吐き気がしますわ」
「藤丸詩織、どういう意味だ!」その嫌味な言い方に、桜井蓮は思わず問い質した。
藤丸詩織は問い詰められても全く怯まず、はっきりと言い返す。「ええ、汚らわしい、と申し上げているのです。特に、いずれ水野月奈を連れ込むのでしょう?想像するだけで反吐が出ますわ。……確か、あなたの大切な月奈さんは、もうこちらへ向かっている途中でしたわね?どうでもいいことで、これ以上時間を無駄にするおつもり?」
侮辱されておいて、どうでもいいことだと!?
桜井蓮は内心で叫んだ。しかし、月奈を迎えに行くことが最優先であることも事実だった。今は、この金に汚い女とこれ以上関わるべきではない、と彼は判断した。
桜井蓮は苦虫を噛み潰したような顔で、弁護士に電話をかけた。「香月弁護士か。これから送る条件で、離婚協議書を作成して、すぐに持ってきてくれ」
香月明が到着した時、藤丸詩織は落ち着き払った様子でテーブルの一方に腰掛け、対する桜井蓮は不機嫌極まりない表情をしていた。桜井蓮の瞳が一瞥くれると、香月明は思わず息を呑んだ。
「桜井社長、離婚協議書をお持ちしました」香月明は書類をテーブルに置くと、そそくさと脇へ控えた。
この2年間、桜井蓮の指示で、少なくとも千通は離婚協議書を作成したはずだ。だが、いつも藤丸詩織が桜井社長に泣きついて沙汰止みになっていた……。今回もそうだろうと思っていたが……先ほど送られてきた契約内容を見て、香月明は驚愕した。奥様が、これほどの利益を得るとは……?しかも、今日のこの雰囲気は、これまでとは全く違う。奥様は懇願するどころか、まるで桜井社長と互角に渡り合っておられる……
桜井蓮はペンを取ると、内容を一顧だにせず署名し、藤丸詩織の前に突き出した。冷たく命じる。「――サインしろ」
藤丸詩織は桜井蓮のように無造作にはいかない。相手が作成した書類だ、どんな罠が仕掛けられているかわからない。詩織は契約書を手に取り、注意深く条項に目を通し、問題がないことを確認してから、ようやくペンを走らせた。
その慎重な仕草を見て、桜井蓮は再び嘲るように言った。「ふん、もっともらしく目を通したりして。お前のような教養のない女に、何が理解できるというんだ?それとも……やはり俺が恋しくて、時間を稼いでいるのか?」
その言葉に、藤丸詩織は呆れて笑いそうになった。眉をひそめ、心底うんざりしたように桜井蓮を見る。「3年も一緒にいて、今日初めて気づきましたわ。桜井社長には、自己愛が強すぎるという欠点がおありだったのですね。それは病気ですわよ、社長。早く治療なさらないと。手遅れになったら……誰かに殴り殺されても知りませんから」
「藤丸詩織、貴様!」桜井蓮は怒りに顔を歪め、椅子を蹴立てるように立ち上がると、藤丸詩織を睨みつけた。
藤丸詩織が、もしかしたら殴られるかもしれない、と思ったその時、桜井蓮のスマートフォンが鳴った。
また、あの聞き慣れた着信音。――水野月奈からだ。それを認識した瞬間、藤丸詩織の眉が微かにひそめられた。
……記憶を失っていたとはいえ、この3年間の経験と感情は、今の詩織にも生々しく蘇る。この状況に、やはり心の底から不快感が湧き上がってくるのを禁じ得ない。
藤丸詩織は冷めた目つきで、桜井蓮が電話に出るのを見ていた。受話器の向こうへの、甘やかな声。「――月奈」