ただいま

次の瞬間、桜井蓮の顔色がさっと変わった。電話口の相手の言葉に、藤丸詩織にもその理由が察せられた。

「――なんだと?帰る途中で、事故に?月奈、心配するな、今すぐ行く!最高の医者を用意する、絶対に大丈夫だ!……相手の運転手だと?許さん、絶対に許さんぞ!」

電話を切るや否や、桜井蓮は火が付いたように部屋を飛び出そうとした。

だが、数歩進んで立ち止まると、振り返り、冷たく言い放った。「明日の午前、区役所だ。時間通りに来い。……つまらない真似はするなよ!」

藤丸詩織はぐっと奥歯を噛みしめ、テーブルの下で拳を固く握りしめた。声には抑えた怒りが滲む。「……自分がどれほどの値打ちだとお思いで?小細工する価値などちりひとつありませんわ。用事ができたのはあなたのほうでしょう?こちらは今すぐにでも区役所に行って、離婚して差し上げたいくらいですのに!」

「……その威勢が、明日まで続くといいがな」桜井蓮はそう言い捨てると、今度こそ足早に去っていった。

「本当に……離婚、されたのですか?」香月明は呆然と呟いた。先ほどの藤丸詩織と桜井蓮のやり取りに、すっかり見入ってしまっていたのだ。

何しろ、この2年間、数えきれないほどの離婚沙汰が、結局は立ち消えになる場面を見てきたのだ。今度こそ本当に離婚が成立したことに、驚きと、どこか場違いな感慨を覚えていた。

香月明の声に、藤丸詩織はようやく部屋にまだ人がいたことを思い出したようだ「……香月弁護士は、まだ何か?」

藤丸詩織の声にはっとし、香月明は慌てて身を引いた。「い、いえ!失礼いたします!」

だが、去り際に、香月明はためらった。離婚協議書はまだ藤丸詩織の手元にある。それを返してもらわなければならないのだが……どう切り出すべきか。

それにしても、奥様が、これほど短時間で、これほど……気迫が変わられるとは……先ほどの威圧感に、声をかけることすら憚られた。

藤丸詩織は、何度かこちらを窺う香月明の視線に気づき、自分がまだ書類を持っていることを思い出した。小さく唇を結び、彼に書類を差し出す。

「すみません、忘れていましたわ」

「い、いえ!」香月明は素早く書類を受け取ると、逃げるように車に戻った。運転席に座り、先ほどの光景を反芻する。……これまでの奥様に対する見方は、間違っていたのかもしれない。明らかに、桜井社長より、ずっと、話のわかる方ではないか……

香月明が去り、広大な屋敷には藤丸詩織一人が残された。ふと自分の服装に目を落とし、眉間に深い皺が刻まれる。

藤丸詩織は鏡の前に立つ。今日の自分は白いワンピースに、長くストレートな黒髪。……これは、以前、桜井蓮のスマートフォンで偶然見かけた水野月奈の写真を見て、彼の気を引くために、必死で真似たスタイルだった。こんな格好をすれば、彼が振り向いてくれるかもしれない、と……愚かにも、そう願っていた。

藤丸詩織の苛立ちが、じわじわと胸の奥から込み上げてくる。

そばにあったスマートフォンを手に取り、指が覚えている番号を呼び出す。コール音が鳴るか鳴らないかのうちに、相手が出た。

電話の向こうから、男の、嗚咽混じりの声が聞こえた。「……ボス……?ボス、なんですか!?」

久我湊(くが みなと)の声だ。驚きと信じられない気持ちで、言葉が途切れ途切れになっている。

聞き慣れたその声に、藤丸詩織の目頭も熱くなる。声を抑え、囁くように告げた。「……私よ。ただいま、湊」

「ボス!この3年間、どこに……!? 俺たち、もう、ボスは……って……!」久我湊の声は、まだ震えている。

藤丸詩織はそっと目を伏せ、感情を隠すように言った。「……少し、事故があったの。でも、もう終わったことよ。それより、今すぐ、迎えに来てくれる?」

「もちろんです!もちろんですとも!ボス、待っていてください、今すぐ行きます!」久我湊は、半秒でも遅れたら藤丸詩織がまた消えてしまうかのように、必死に応えた。

電話のこちら側にいても、久我湊が慌ただしく動き回り、何かにぶつかる音が聞こえてくる。

藤丸詩織は小さく笑みを漏らしたが、再び自分の服装に目をやり、顔に嫌悪の色が浮かんだ。

彼女はようやく久我湊に電話をかけた目的を思い出し、彼の足取りに遅れないように急いで言った。「来る時、私のサイズの服を持ってきてちょうだい。」

「はいっ!」久我湊の元気な返事が返ってきた。

それから十数分後。見るからに高価なプライベートジェットが屋敷の上空を旋回する中、藤丸詩織はラップトップを開き、株価ボードを睨みながら、キーボード上で指を踊らせていた。

ほんの数分の間に、彼女は――藤丸グループの株式の50%を取得していた。