桜井蓮は少し躊躇していた。この言葉を口に出すべきかどうか迷っていたが、藤丸詩織と榊蒼真の二人は桜井蓮が悩んでいることなど気にも留めず、彼に視線を向けることさえしなかった。
藤丸詩織は目を上げて榊蒼真を見つめながら言った。「私、眠いわ」
その言葉が終わるや否や、藤丸詩織は大きく欠伸をした。
榊蒼真は藤丸詩織の言葉を聞くと、すぐさま答えた。「家まで送って休ませてあげるよ」
「うん」藤丸詩織は素直に頷き、両手を広げて榊蒼真に抱っこをせがんだ。
本来なら藤丸詩織をおんぶして帰るつもりだったが、まさか抱っこができるとは。それに気づいた榊蒼真の顔に、明るい笑顔が浮かんだ。
もし彼が犬だったら、今頃きっと尻尾を振っているところだろう。
榊蒼真は手を伸ばし、優しく藤丸詩織を抱き上げた。
桜井蓮がちょうど言い訳を思いついて口を開こうとした時、榊蒼真のその動作を目にした。彼の瞳が揺れ、徐々に赤くなっていった。
桜井蓮は歯を食いしばって言った。「やっぱり二人は前からできていたんだな。藤丸詩織はやるじゃないか、離婚もしていないのに他の男と関係を持つなんて。教えてやるが、お前だけじゃないぞ。この目で見たんだ、他にも男がいるのを。お前が予備の男になるんじゃないかと気をつけたほうがいいぞ!」
榊蒼真は本来なら桜井蓮の相手をする価値もないと思い、そのまま立ち去るつもりだった。今、藤丸詩織が眠っているのだから時間を無駄にはできない。だが、まさか彼がお姉さんについてそんなことを言うとは。
榊蒼真は目を上げて桜井蓮を鋭く見つめ、表情がどんどん冷たくなっていった。
桜井蓮も榊蒼真を見返したが、この時になって初めて気づいた。自分は榊蒼真より数センチ低かったのだ。それに気づいた途端、彼の威圧感は一気に薄れ、目線も一瞬逸らしてしまった。
しかし桜井蓮は強引に榊蒼真を見続けようとした。まるでそうすることで先ほどの逃げ腰な態度を帳消しにできるかのように。
だが榊蒼真は桜井蓮にそれ以上見つめる機会を与えなかった。彼は直接足を上げて桜井蓮を蹴り飛ばした。
桜井蓮は不意を突かれ、地面に倒れ込んだ。立ち上がろうとしたが難しく、ただ榊蒼真を睨みつけることしかできなかった。
榊蒼真の一連の動作は流れるように滑らかで、藤丸詩織を抱いていたにもかかわらず、体勢を完璧にコントロールしていた。そんな大きな動作をしたにもかかわらず、腕の中で眠る藤丸詩織を起こすことはなかった。
じっと向けられる視線に対して、榊蒼真は怯むことなく、先ほどの桜井蓮の言葉に答えた。「お姉さんの周りに一人しか男がいないということは置いておいて、たとえお姉さんの周りに百人の男がいたとしても、俺は喜んで列に並ぶよ。誰もがお姉さんの側にいられる訳じゃないからね。例えば君みたいに、この先一生その可能性のない人もいる」
その言葉を残し、榊蒼真は振り返ることもなく藤丸詩織を抱いて去っていった。
桜井蓮は二人の去っていく背中を見つめながら、怒りに任せて地面を殴りつけ、歯ぎしりしながら低く呟いた。「列に並ぶ機会がないだと?笑わせるな。俺、桜井蓮は死んでも藤丸詩織なんか好きにならないし、ましてや彼女の列に並ぶなんてことは絶対にない!」
言い終わると桜井蓮の理性も戻ってきて、周りを見回すと多くの人が彼を見ていることに気づいた。それに気づいた途端、怒りで顔を赤くし、思わず叫んだ。「何見てんだよ、見るところなんかねえだろ!」
久我湊は電話を終えて戻ってきた時、ちょうど桜井蓮がそう叫ぶところを目にした。
彼は思わず近づいていき、驚いたふりをして言った。「おや、桜井さんはこんなに潔癖症だったんですか。バーの床を這いつくばって掃除するなんて!」
桜井蓮は久我湊を睨みつけ、歯を食いしばって言った。「調子に乗るな。藤丸詩織は今しがた榊蒼真に連れて行かれたんだぞ。抱っこしてくれって言ってな」
この言葉を言う時、桜井蓮は終始久我湊を見つめていた。久我湊の怒った表情が見たかったのだ。
しかし事態は桜井蓮の想像通りには進まなかった。
久我湊は確かに大きな感情の揺れを見せたが、怒りではなく、ただ驚いただけだった。「なんだって、榊蒼真のやつに連れて行かれたのか。俺がちょっと席を外している間に!」
言い終わると久我湊はバーの出口に向かって歩き出したが、数歩進んだところで何かを思い出したように立ち止まり、振り返って桜井蓮に視線を向けた。
桜井蓮は久我湊の視線に気づき、さらには危険を感じたが、反応する間もなく、相手は既に目の前に来ていて、直接彼を蹴り飛ばした。
「くっ」桜井蓮は思わず痛みの声を上げた。
彼はようやく立ち上がれるくらいまで回復していたのに、今度は久我湊にもう一発蹴られ、再び地面に倒れ込んでしまった。