榊蒼真がそう言ったので、藤丸詩織も特に言うことはなくなり、承諾した。「いいわ。じゃあ、今すぐ会社に行って契約を結びましょうか?」
「はい」榊蒼真は少しの躊躇もなく同意した。
そして同意した後、榊蒼真は何かを思い出したように、目が泳ぎ始め、小さな声で言った。「お姉さん、今朝携帯が鳴ってたんです。久我湊さんからの電話でした。でも、お姉さんが寝てたので、勝手に出てしまって。森村秘書に連絡済みで、今日は遅めに出社していいって言ってました」
「そう」藤丸詩織は頷いて承諾した。
榊蒼真は目を輝かせ、興奮した様子で「お姉さん、僕が許可なく電話に出たこと、怒ってないんですか?」
藤丸詩織は少し戸惑った。そのことについて全く考えていなかったので、怒ってないはずだと。
そう思い、彼女も軽く首を振って、正直に答えた。「怒ってないわ」
「へへへ」榊蒼真は藤丸詩織の確かな返事を聞いて、思わず馬鹿笑いを浮かべた。
藤丸詩織は彼が何を馬鹿笑いしているのか分からなかったが、榊蒼真の笑顔を見て、自分の気分も良くなった。そして、ある事を思い出した。「午前中は会社に行かなくていいなら、この時間を使って一つ用事を済ませましょう」
昨日、藤丸明彦が彼女に注意したことだった。彼らは今も彼女の両親が生前住んでいた別荘に住んでいる。今、彼女が戻ってきたので、そろそろ彼らを追い出す時だと。
「お姉さん、僕も一緒に行っていいですか?帰国したばかりで、まだ慣れてないし、友達もいないから、お姉さんが出かけちゃうと、僕一人で寂しく別荘にいることになっちゃうんです」榊蒼真は後半になるにつれて、より一層寂しそうな声になっていった。
本来、藤丸詩織は断るつもりだった。遊びに行くわけではないのだから。でも、榊蒼真の言葉を聞いて、彼の言った光景が頭に浮かび、思わず心が痛んだ。
少し考えた後、藤丸詩織は承諾することにした。「いいわ。ちょうど後で会社に寄って契約も結べるし」
榊蒼真は何度も頷いた。「はい」
ただし、出かける前に、藤丸詩織にはまだ一つ処理すべきことがあった。彼女は携帯を取り出し、適当に操作して誰かにメッセージを送った。
一方、病院では。
「桜井さん、足と顔が...どうしたんですか?」水野月奈は目の前の車椅子に座る男性を見た。足に包帯を巻いているだけでなく、左側の顔にも同様に包帯が巻かれていた。
桜井蓮は固まった。特に昨夜の出来事を思い出し、顔色が暗くなった。
まさか自分の今の状態を水野月奈に見られるとは思わなかった。全て相良健司が自分をこの病院に手配したせいだ。帰ったら給料を減らしてやる!
相良健司が桜井蓮の考えを知ったら、きっと無実を叫ぶだろう。なぜなら、未明に桜井蓮から突然電話があり、すぐにバーに迎えに来て、最寄りの病院に送るように言われたのだから。
そして水野月奈が今いるこの病院は、まさにバーから一番近い病院だったのだ。
桜井蓮は水野月奈の前にいることを思い出し、急いで感情を抑えて話し始めた。「昨日ちょっとした事故があって」
より詳しいことは桜井蓮は話したくなかった。というより、思い出したくもなかった。
水野月奈は桜井蓮の様子を見て、察しが良く、この件についてそれ以上触れなかった。その代わりに笑顔で「じゃあ、お昼一緒に食べに行きませんか?」と言った。
桜井蓮は水野月奈がそれ以上質問しないのを見て、思わずほっとした。心の中で少し断りたい気持ちがあったのを無視して、「いいよ」と承諾した。
しかし桜井蓮が承諾したばかりのところで、携帯が鳴った。
実家の桜井桉慈からの電話だった。桜井蓮はすぐに出た。
彼が口を開く前に、向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。「お前、藤丸詩織と離婚したそうじゃないか。すぐに帰って来い!」
桜井蓮は先ほど水野月奈と昼食の約束をしたので、断った。「おじいちゃん、今用事があるんです」
しかし桜井桉慈はその言葉を聞き入れず、すぐに「お前は病院を出たばかりで何の用事があるんだ?10分やる。自分で考えろ」と言った。
言い終わると、桜井桉慈は桜井蓮に断る機会を与えず、すぐに電話を切った。
これを見て、桜井蓮は仕方なく水野月奈に「すみません、家に帰らないといけなくなりました。今度時間があったら、改めて食事に行きましょう」と言った。
桜井桉慈の声は大きく、スピーカーフォンにしていなくても聞こえるほどだった。まして水野月奈は桜井蓮のすぐ近くに立っていた。
彼女は会話を全て聞いていたが、聞こえなかったふりをして、思いやりのある様子で「大丈夫です。桜井さん、用事があるなら先に行ってください」と言った。