榊原 エリク

蘇我紬は影山瑛志を十年間想い続け、二年間彼の妻だった。

世間から見れば、彼は完璧な夫だった。
記念日には欠かさず贈り物を用意し、優しさにあふれ、紬を大切にしていた。
彼女はまさに掌中の宝であり、彼にとって唯一無二の存在に見えた。
――だが、それはすべて“約束を守る男”としての義務にすぎなかった。

結婚当初、彼は言ったのだ。
「君と結婚してもいい。でも俺の心には別の人がいる。この結婚は三年だけ。三年後、君から離婚を申し出てくれ」

だから、結婚三周年を目前に控えたあの日、彼が離婚届を紬の前に差し出しても、彼女は驚かなかった。
ただ静かに妊娠検査薬をポケットに隠し、微笑んで言った。「……わかった」

そして、その数日後――
影山瑛志の結婚式の日。紬は交通事故に遭い、命を落としたとされていた。
流血し、冷たい地面に倒れながらも、お腹の子だけは必死に守ろうとした。

その日、彼は新婦を置き去りにし、元妻の亡骸を一週間も離さず抱きしめ続けたという噂が広まった。
影山瑛志は、彼女の死をきっかけに狂ってしまったのだ――

だが数年後のある日。
彼は人混みの中で、見覚えのある女性と、二人の幼い双子に出会う。
その女性は、確かに“死んだはずの妻”――蘇我紬だった。

離婚してようやく、彼は私を失ったことに気づいた

前もって彼女に告げたのは、離婚生活に慣れさせるためだったのに、今度は彼女の考えすぎだと。両立できる事なんてあるはずがない。心配なら心配と認めればいいのに、何を取り繕っているのだろう！


蘇我紬には、この男の頭の中で何を考えているのか理解できなかった。


でも、もう推し量ろうとも思わない。疲れた。


その何でもないような態度に、影山瑛志はその言葉を事実として受け止めることができなかった。


それに気づいて、かえって安心し、興味が湧いてきた。「どうした？子供が欲しいのか？」


蘇我紬は子供が好きなのか？


彼は蘇我紬がそれほど子供が好きだとは気づかなかった。


蘇我紬は首を振り、顔にメイクを施しながら影山瑛志を観察し、口紅を丁寧に塗り直してから、唇を曲げて笑って言った。「私、綺麗？」


032 影山若様、よだれを拭いて